物語
01シテ島の工房
1775年、28歳のアブラアン=ルイ・ブレゲは、パリ・シテ島オルロージュ河岸39番地に工房を構えた。スイス・ヌーシャテル生まれの彼は少年期に継父の薦めでヴェルサイユに渡り、ベルトゥとルピーヌのもとで時計技術を学んでいる。同時に神父マリーから物理・光学・天文の知識を吸収した。職人と学者の両側面を持つ稀有な素地が、後の発明の連鎖を生み出すことになる。
開業から数年で家庭は試練に襲われる。1780年、妻セシルが28歳で亡くなった。失意の中で完成させたのが、自動巻きの懐中時計「ペルペチュエル」である。スイスのアブラアン=ルイ・ペレレが1777年頃に提示した自動巻き機構を、ブレゲは独自の改良を加えてパリ社交界へ送り出し、自動巻き懐中時計を高級時計の文脈に定着させた。続いて1783年にはリピーター用ゴングスプリングを発明し、同年に針と数字の意匠を確立した。マリー・アントワネットやルイ16世から注文が入り始めたのもこの時期である。
02革命と亡命
1789年に始まったフランス革命は、宮廷を主要顧客とするブレゲ工房を直撃した。1793年、革命家マラの取り計らいで通行証を得たブレゲは、家族を伴いスイスへ逃れたと伝わる。1795年にパリへ戻ると、戦災で疲弊した市場に向けて新たな商品設計に着手した。
その答えが、1796年に着想され翌年から販売された「スースクリプション(予約販売)」である。中央巻きの大型香箱を持つ簡素な単針時計で、注文時に代金の四分の一を前納する方式を採った。広告冊子を用いた告知手法そのものが当時として斬新であり、ブレゲ工房の経営を立て直した。
03トゥールビヨンと帝政期
1801年6月26日、ブレゲは重力に起因する歩度の不規則性を補正する装置 — トゥールビヨン — の特許を取得した。脱進機全体をキャリッジに収め、1分で一回転させることで姿勢差を平均化する着想である。理論は明快ながら製造は困難を極め、1805年にようやく最初の市販品が完成。創業者の存命中に出荷されたトゥールビヨン搭載機は約35本にとどまる。
1808年にはサンクトペテルブルクに支店「ロシア館」を開設。1810年、ナポリ王妃カロリーヌ・ミュラ(ナポレオンの妹)から「ブレスレット用のリピーター時計」が注文された。No.2639として記録されたこの楕円形の時計は1812年に納品され、髪と金糸を編んだストラップに装着された史上初の腕時計と伝わる。
1814年に経度局会員、1815年にはルイ18世により王立海軍御用時計師に任ぜられ、1816年には科学アカデミー会員に選出されレジオン・ドヌール勲章を受勲した。1823年9月17日、アブラアン=ルイは76歳でパリに没する。マリー・アントワネット用に1783年に依頼された懐中時計No.160は、息子アントワーヌ=ルイと孫ルイ=クレマンの手で1827年に完成した。
04ブラウン家の100年と20世紀の試練
1870年、創業家の継承が途絶え、工房長を務めていたイギリス人エドワード・ブラウンが経営を引き継いだ。以後3世代にわたるブラウン家統治のもと、海洋クロノメーターや航空計器の供給で名を保つ。創業家の末裔ルイ=シャルル・ブレゲは航空機製造に進み、1929年には彼が手掛けた「ブレゲ19TR」が南大西洋無着陸横断に成功するなど、航空との縁も深まった。
1950年代、フランス国防省の仕様要求に応じてフライバック・クロノグラフ「タイプ20」を開発、フランス空軍と海軍航空隊に納入された。これが現行タイプXXシリーズの原型である。
05危機と再生、そして250年
1970年、ブラウン家はパリの宝飾商ショーメ兄弟に売却した。ショーメ家はダニエル・ロートを擁してブランドを再建しようと試み、1976年に工房をパリからスイスのヴァレ・ド・ジューに移した。しかし1987年6月、兄弟は経営破綻と詐欺で逮捕され、ブレゲは投資会社インベストコープに渡る。1994年、ラベイのジュー湖畔に新工場を構えた。
1999年9月14日、ニコラ・G・ハイエック率いるスウォッチ グループがブレゲを約2億スイスフランで買収。ハイエックは個人的にブランド再建を指揮し、ルマニアの統合(2003年)、シリコン素材の本格採用(2006年〜)、パリ・ヴァンドーム広場のミュージアム開設(2000年)など、矢継ぎ早に投資を行った。2008年にはマリー・アントワネット用No.160の完全復元版No.1160を発表している。
2024年10月1日、オメガで20年以上製品開発を担ったグレゴリー・キスリングがCEOに就任。2025年の創業250周年では、1796年のスースクリプション懐中時計を腕時計化した「クラシック・スースクリプション 2025」を皮切りに、新ロゴと18Kブレゲ・ゴールド合金を含む段階的な刷新が進められている。