アブラアン=ルイ・ブレゲ
トゥールビヨンと自動巻きを発明し、ブレゲ針やギヨシェ装飾を様式化した18〜19世紀の時計師
アブラアン=ルイ・ブレゲ(Abraham-Louis Breguet、1747-1823)は、ヌーシャテルに生まれ、パリで活動した時計師である。トゥールビヨン、自動巻きのペルペチュエル、パラシュート耐衝撃機構、ブレゲヒゲゼンマイなど、計時の精度と信頼性を高める発明を相次いで生み出した。先端を月形に抜いたブレゲ針や、わずかに傾いたブレゲ数字といった意匠もこの時代に確立され、いずれも現代の時計製造に受け継がれている。マリー・アントワネットやナポレオンを顧客に持ち、近代時計学の基礎を築いた人物として位置づけられる。
生涯
1. ヌーシャテルからパリへ
アブラアン=ルイ・ブレゲ(Abraham-Louis Breguet)は1747年1月10日、当時プロイセン領であったヌーシャテルに生まれた。一家は、カトリックのフランスから逃れてきたプロテスタントの家系である。1758年に父を亡くし、学校教育は早くに終わった。母の再婚相手が時計師であったことが、少年と時計を結びつけることになる。
15歳前後でフランス・ヴェルサイユの時計師に弟子入りし、夜間にはコレージュ・マザランで数学と物理を学んだ。当時のヴェルサイユは宮廷に近く、フランスの時計技術が集まる場であった。やがてフェルディナン・ベルトゥーやジャン=アントワーヌ・レピーヌといった当代の名工のもとで研鑽を積む。聖職者マリ神父との交友を通じ、物理学や天文学の知識も得たと伝わる。この時期に培った科学的な素養が、後年の発明を支えることになる。
2. 独立、そして革命
1775年、28歳のブレゲはパリのシテ島、ケ・ド・ロルロージュに自身の工房を構えた。同じ年にセシル=マリー・ルイユイエと結婚し、翌年には一人息子アントワーヌ=ルイが生まれている。だが家庭の幸福は長く続かなかった。幼い子を相次いで失い、1780年には妻も世を去る。ブレゲが再婚することはなかった。私生活の悲しみと前後して、自動巻き「ペルペチュエル」の開発が進んだ時期でもある。
仕事の評価は早くから高まり、マリー・アントワネット王妃やルイ16世が顧客に名を連ねた。しかし宮廷との縁は、フランス革命下では危険にもなりうる。1793年、同郷の革命家ジャン=ポール・マラの警告により、ブレゲは処刑を逃れてスイスへ亡命したと伝わる。
3. 帰還と晩年
革命後の混乱が収まった1795年、ブレゲはパリに戻り、ケ・ド・ロルロージュでの仕事を再開した。亡命の日々に構想した数々の機構が、この時期に次々と形を得てゆく。ナポレオン・ボナパルトやロシア皇帝アレクサンドル1世も愛用者となり、その名はヨーロッパの宮廷を横断した。作家スタンダールも、作品のなかでブレゲの時計に触れている。
晩年には公的な栄誉が重なった。1814年に経度局の委員となり、翌1815年にはルイ18世により海軍時計師に任じられ、1816年には科学アカデミー会員に選ばれている。レジオン・ドヌール勲章も受けた。1823年9月17日、ブレゲはパリで76年の生涯を閉じた。亡骸はペール・ラシェーズ墓地に葬られている。
業績・代表作
1. 計時精度をめぐる発明
ブレゲの業績の中核には、時計の精度と信頼性を高めるための一連の機構的発明がある。最も知られるのは、1801年6月26日に特許を取得したトゥールビヨンである。脱進機と調速機をひとつの回転ケージに収め、懐中時計が垂直に保持されることで生じる重力の偏りを、回転によって平均化しようとした機構であった。着想はスイス亡命中の1795年前後とされ、特許までに約6年、最初の市販品が登場する1805年まではさらに数年を要したと記録されている。
トゥールビヨン以前にも、ブレゲは複数の機構を世に問うている。歩行のたびに錘が動いて主ゼンマイを巻き上げる自動巻き「ペルペチュエル」、テンプの軸を落下の衝撃から守る「パラシュート(pare-chute)」、ヒゲゼンマイの末端を持ち上げて等時性を改善したブレゲヒゲゼンマイ。これらはいずれも、後年の時計製造へ受け継がれていった。
2. 設計言語としてのブレゲ
ブレゲの名は、機構と同じだけ意匠の様式と結びついている。先端を月形に抜いた「ブレゲ針」、わずかに傾いた手書き風のアラビア数字「ブレゲ数字」、機械加工で文字盤に細かな紋様を刻むギヨシェ装飾。これらは1780年代に整えられ、今日では特定のブランドを超えた、時計製造の共通語彙となっている。
その根底にあるのは、過剰な装飾を削り、視認性と情報の階層を優先する姿勢である。白いエナメル文字盤、鉄道線路に見立てた分目盛り、ケースに緩やかに溶け込む薄い「シェベ」風防。新古典主義の時代精神と響き合うこの簡潔さこそが、ブレゲの様式を支えている。溝を刻んだケースバンドや、偽造を防ぐ隠し署名も、その語彙の一部である。
3. 製造と販売の刷新
ブレゲは作品だけでなく、時計の作り方と売り方そのものも変えた。1796年前後に始めた「スースクリプシオン(予約販売)」は、代金の4分の1を前払いさせて製造資金に充てる仕組みである。単針の簡素な懐中時計を比較的多く供給する道を開き、注文生産が常識であった時代に新しい販路を示した。
顧客との関係も、ブレゲの業績の一部といえる。1810年にはナポレオンの妹でナポリ王妃となるカロリーヌ・ミュラの依頼を受け、腕に着ける時計を製作した。1812年に納められたこの作品は、史上初の腕時計とされる。携帯用の旅行時計や、二つの時計を連動させるサンパティック時計も、こうした顧客の求めに応えるなかで生まれている。
評価・後世への影響
ブレゲの死後、工房は一人息子アントワーヌ=ルイ・ブレゲ(Antoine-Louis Breguet、1776-1858)が引き継いだ。父ほどの商才には恵まれなかったとされるが、海洋クロノメーターの製造などで事業を続け、リューズ巻きの先駆けとなる機構も生み出している。1833年には経営を自らの息子ルイ=クレマンに譲った。
注文主がついに見ることのなかったマリー・アントワネット時計No.160は、ブレゲの没後4年にあたる1827年に完成したと伝わる。この作品はのちに収集家サー・デイヴィッド・サロモンズの手に渡り、彼が著した『Breguet (1747-1823)』は、長くブレゲ研究の基礎資料となった。No.160は1983年に盗難に遭い、2007年に発見されている。
20世紀後半には、イギリスの時計師ジョージ・ダニエルズが1975年に『The Art of Breguet』を著し、ブレゲ研究を新たな段階へ進めた。1999年、ブランドはニコラ・ハイエック率いるスウォッチ グループの傘下に入り、現代のブレゲとして再興している。発明されたオーバーコイルやトゥールビヨンは、今日の時計製造の現場にも受け継がれている。