物語
01マルセイユからパリへ、修復家としての修業
フランソワ=ポール・ジュルヌは1957年、フランス南部マルセイユに生まれた。手先を動かすことに早くから関心を示し、14歳でマルセイユの時計学校に入学する。1976年、パリ時計学校を卒業すると、パリで懐中時計修復家として知られた叔父ミシェル・ジュルヌの工房に入った。ここで彼が手掛けたのは、ブレゲ、アンティード・ジャンヴィエ、サー・セシル・クラットン旧蔵などの歴史的な懐中時計の修復であった。とりわけ、共鳴現象を用いたブレゲのNo.3177時計に触れた経験は、のちの「レゾナンス」発想の遠い源泉になったと伝わる。
工房の本棚にあったジョージ・ダニエルズの著作『The Art of Breguet』を手にしたとき、若きジュルヌは決意する。修復ではなく、自分自身で時計を作る——その帰結が、1983年1月、25歳のときに完成した自作の懐中時計であった。トゥールビヨンとデタント脱進機を組み込んだその一作は、時計学校が修復技術中心の教育に偏っていた当時の常識からすれば、異例の達成であった。
02独立への助走と「スースクリプション」方式
1980年代、ジュルヌは収集家や歴史的時計のオーナーから個別の修復・特注を引き受ける。アスプレイやカルティエなどへの仕事もこなしながら、私的に腕時計のプロトタイプを進めていた。1991年、彼はトゥールビヨンと一秒レモントワール・デガリテを統合した最初の腕時計を完成させる。資金は乏しく、ブランド設立の見通しは立たなかった。
転機は友人カミーユ・ベルテの提案であった。20名の信頼できる顧客から、まだ存在しない時計に対して半額の前金を募る「スースクリプション(購読)」方式である。1999年、こうして20本のプラチナ製「トゥールビヨン・スヴラン・スースクリプション」が誕生し、これがF.P. ジュルヌ・マニュファクチュール設立の元手となった。同年のバーゼルワールドでブランドが正式に発足する。
03ジュネーブにマニュファクチュールを構える
1999年から2000年代初頭にかけて、ジュルヌは矢継ぎ早に基幹作を発表する。2000年「クロノメトル・ア・レゾナンス」、2001年「オクタ・レゼルヴ・ド・マルシュ」(120時間パワーリザーブの自社初の自動巻き)。2003年9月には、安藤忠雄設計の「ラ・コレッツィオーネ」内に世界初の直営ブティックを東京・南青山に開設した。当時はブランド側が小売店任せの流通を強める潮流のなかにあり、自前で直営店を構える判断は逆風を承知のものであった。
2004年、ジュルヌはそれまでロジウムめっき真鍮で作っていたムーブメント全機種を18Kローズゴールド製に切り替える。同年、デッドビート秒針を備えた「トゥールビヨン・スヴラン・ア・スゴンド・モルト」がGPHGの金の針賞を受賞。続く2006年「ソヌリ・スヴラン」、2008年「センティグラフ・スヴラン」と、三度の頂点受賞を史上唯一達成することになる。
04領域の拡張と独立性の維持
2011年、軽量素材を主題とした「ラインスポーツ」コレクションを発表。2014年には電池駆動でありながら不装着時にムーブメントが自動停止し、装着で再起動する独自機構を備えた「エレガンテ」を投入し、機械式に閉じない表現の幅を示した。2015年、香港のラグジュアリーリテーラーThe Hour Glassと共同で「ヤング・タレント・コンペティション」を創設。若い時計師に賞金CHF50,000と表彰の場を毎年提供し、独立時計界の世代継承を支える仕組みとした。
2018年、シャネルがモントレ・ジュルヌSAに20%の少数株式出資を行う。シャネルはこれに先立ちベル&ロス(1998年)、ロマン・ゴーティエ(2011年)にも出資しており、ジュルヌ側は経営の独立性と意思決定の自由が維持される旨を明らかにしている。
05現在——希少性のなかで進む実験
2020年に「クロノメトル・ア・レゾナンス」がキャリバー1520へ刷新され、単一香箱と差動装置、毎秒レモントワール・デガリテ二基という新構造を得た。2023年、東京ブティック開設20周年を記念した「クロノグラフFB」200本を発表し、これを最後の限定シリーズと位置づけている。2025年には42mm径の一体型ブレスレット仕様、グランフー・エナメル文字盤を備えた「クロノメトル・フルティフ」が常設コレクションに加わった。年産1,000本以下の自己拘束は、四半世紀を経ても変わっていない。