ジュール=ルイ・オーデマ
オーデマ・ピゲ共同創業者。19世紀末、工業化に抗い複雑機構の手仕事を貫いた時計師(1851-1918)
- BORN
- 1851年
- DIED
- 1918年
- BRAND
- オーデマ ピゲ — 1875年創業
- MODELS
- 20 本
概要
生涯
01ル・ブラッシュの生い立ち
ジュール=ルイ・オーデマは1851年、スイス・ヴォー州のル・ブラッシュ(Le Brassus)で生まれた。ル・ブラッシュはヴァレ・ド・ジュー(ジュー渓谷)の中心集落のひとつで、ジュラ山脈の鬱蒼とした森と長い冬に囲まれた小村である。18世紀以来、この地の農民たちは冬季の閑散期に時計のムーブメント製作で副業を立て、やがて村全体が時計製造の集積地となっていった。
オーデマ家もこの渓谷の製作者の系譜にあった。1811年からル・ブラッシュに拠点を置いた「ルイ・オーデマ」は同族の会社で、のちにオーデマ・ピゲにとって競合であり、顧客であり、親戚でもあった。ジュール=ルイは職人としての基礎をこの渓谷で身につけた。
02共同創業と最初の十年
成人したオーデマは「フィニッシャー(repasseur)」として身を立てる。これは複雑機構の最終調整と仕上げを担う高度な専門職で、ヴァレ・ド・ジューでは特に重んじられた工程である。同時代、同じル・ブラッシュ出身で二歳年下のエドワード=オーギュスト・ピゲ(Édouard-Auguste Piguet、1853-1919)もまた時計師として修業を積んでいた。幼少期からの知己でもあった二人は、それぞれ別個に職人としての評価を得たのち、1870年代前半に再び結びつくことになる。
1875年、オーデマはル・ブラッシュに工房を構えた(1868年築の家屋で、現在の Route de France 18 にあたるとされる)。1881年12月17日にはピゲと共同経営の契約を交わし、1882年1月1日から「Audemars Piguet & Cie」が発足する。オーデマは自ら興した工房の運営を続け、ピゲが商業と財務を担うという分業がこのとき確立された。
03工業化に抗う十年
1880年代から1890年代にかけて、スイス時計産業は機械化と量産化の波に呑まれていった。しかしオーデマとピゲは複雑機構付きの時計に軸足を置き続けた。生産量は1880年代の年に約100本から、1910年代には約25人の職人による年約500本へと緩やかに増えた。1892年には、後にオメガとなるルイ・ブラント・エ・フレールに、ミニッツリピーター搭載の腕時計のムーブメントを納めている。腕時計形式でリピーター機構を実現した最初期の例として記録される作品である。
04晩年と継承
1907年、現在の本社にあたる Route de France 16 に新しい建物を建て、会社は株式会社へと改組された。社業は次第に二代目のポール=ルイ・オーデマ(Paul-Louis Audemars)らに引き継がれていく。1918年、ジュール=ルイ・オーデマは逝去した。翌1919年には盟友ピゲもこの世を去り、創業二人組の時代は幕を閉じる。両家による経営は途切れることなく、今日まで続いている。
業績・代表作
01「何を作らないか」という選択
オーデマ・ピゲ創業期の最大の業績は、特定のヒット作ではなく「何を作らないか」を決めたことにある。1875年の創業時、スイスの時計業界はすでに量産化の競争に入っていたが、ジュール=ルイ・オーデマは敢えて複雑機構付きの懐中時計に絞り込む道を選んだ。オーデマの訃報は、彼が1875年から複雑機構付きの時計を作っていたことを伝えている。
02設計言語と工房文化
オーデマの設計哲学は二つの軸から成る。第一に、工業化に対して手仕事を貫くこと。第二に、コンプリケーションの完成度を生産量より優先することである。
当時の渓谷の製造は「エタブリサージュ」と呼ばれる分業制で、オーデマ・ピゲが主に雇っていたのは「ルパスール」と呼ばれる時計師だった。ルパスールは部品を自ら作るのではなく、渓谷に散らばる数十の小工房の仕事を取りまとめ、調整・仕上げ・組立と検査を担う、当時最も格の高い職種とされた。販売は、ジュネーヴのヴァシュロン・コンスタンタンやパテック フィリップ、ロンドンのデント、ニューヨークのティファニー、パリのカルティエといった流通網を持つ他社、さらにルツェルンのギューブランなどの小売店を通じて行われ、時計にはしばしば販売店の署名が入った。
03腕時計時代への布石
1892年、オーデマ・ピゲはミニッツリピーター機構を搭載した腕時計を製作している。納入先は後にオメガとなる工房であったと伝わる。当時リピーターは懐中時計のための装置と見做されており、これを腕に巻ける寸法に収めたことは技術的な飛躍であった。同作は現在オメガ博物館に所蔵されており、20世紀の腕時計コンプリケーション史の起点のひとつとして言及される。
1899年4月、同社の工房には、従兄弟で隣人でもあったルイ=エリゼ・ピゲ(Louis-Élisée Piguet)の工房から特別なエボーシュが届いた。数か月をかけて1,000を超える部品と19のコンプリケーションを仕上げたこの時計は、ドイツのグラスヒュッテで「Universal Uhr」として販売され、「ユニヴェルセル」の通称で知られる。
04創業者を貫く一本の線
オーデマの仕事を貫く線は、「規模より純度」という選択である。同時代の競合各社が工場規模を拡大していった時期にも、オーデマ・ピゲの生産は年数百本の規模にとどまった。この選択が、20世紀の工業化と二度の世界大戦を経てなお創業家経営が残る同社の姿につながっている。
評価・後世への影響
オーデマ・ピゲは現在に至るまで、創業家であるオーデマ家とピゲ家による独立経営を維持している。これはジュール=ルイ・オーデマとエドワード=オーギュスト・ピゲが築いた家族企業としての構造そのものに由来する。
ジュール=ルイの名は、同社の現代のコレクション「ジュール・オーデマ(Jules Audemars)」として継承されている。
存命中に同社が手がけた1899年の「ユニヴェルセル」懐中時計は、2016年に同社ヘリテージ部門が取得して4年がかりで修復し、2023年 GPHG で金の針賞を受けた「コード11.59 バイ オーデマ・ピゲ ウルトラコンプリケーション ユニヴェルセル(RD#4)」の着想源となった。19世紀末の到達点が約一世紀を経て、現代のグランドコンプリケーション腕時計として再構成された格好である。
オーデマ自身が表舞台で語ることは生涯少なかった。残された業績は、ル・ブラッシュのムゼ・アトリエ・オーデマ・ピゲ(Musée Atelier Audemars Piguet)に展示される懐中時計群と、創業家経営を貫いた現代の同社の姿そのものに集約されている。
この人物が関わったモデル
出典
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