本文へ
PERSON · 1851–1918

ジュール=ルイ・オーデマ

Jules-Louis Audemars
創業者 時計職人

オーデマ・ピゲ共同創業者。19世紀末、工業化に抗い複雑機構の手仕事を貫いた時計師(1851-1918)

01 — 概要 / OVERVIEW

ジュール=ルイ・オーデマ(Jules-Louis Audemars、1851-1918)はスイスの時計師であり、1875年にヴァレ・ド・ジューのル・ブラッシュで幼馴染のエドワール=オーギュスト・ピゲと共にオーデマ・ピゲを共同創業した人物である。技術責任者としてムーブメント設計を担い、1882年から1892年の十年間で約1600本を世に送り出した。その八割にミニッツリピーターや永久カレンダー、クロノグラフ等のコンプリケーションを備え、工業化が進む19世紀末に手仕事の少量生産を貫いた姿勢が、創業家による継承を今日まで支えるブランドの礎となっている。

02 — Life

生涯

A life in time

1. ル・ブラッシュの生い立ち

ジュール=ルイ・オーデマは1851年3月28日、スイス・ヴォー州のル・ブラッシュ(Le Brassus)で生まれた。ル・ブラッシュはヴァレ・ド・ジュー(ジュー渓谷)の中心集落のひとつで、ジュラ山脈の鬱蒼とした森と長い冬に囲まれた小村である。18世紀以来、この地の農民たちは冬季の閑散期に時計のムーブメント製作で副業を立て、やがて村全体が時計製造の集積地となっていった。

オーデマ家もこの渓谷の製作者の系譜にあった。19世紀初頭にはルイ=バンジャマン・オーデマ(Louis-Benjamin Audemars)率いる「ルイ・オーデマ商会」が当地で活動し、複雑機構付きの懐中時計で名を馳せていたが、ジュール=ルイはその傍系筋にあたる家に生まれている。幼少期から父親のもとで時計製作の手ほどきを受け、職人としての基礎をこの渓谷で身につけた。

2. 共同創業と最初の十年

成人したオーデマは「フィニッシャー(repasseur)」として身を立てる。これは複雑機構の最終調整と仕上げを担う高度な専門職で、ヴァレ・ド・ジューでは特に重んじられた工程である。同時代、同じル・ブラッシュ出身で二歳年下のエドワール=オーギュスト・ピゲ(Édouard-Auguste Piguet、1853-1919)もまた時計師として修業を積んでいた。幼少期からの知己でもあった二人は、それぞれ別個に職人としての評価を得たのち、1870年代前半に再び結びつくことになる。

1875年、両者は共同事業を起こす。場所はオーデマ家の農家であった。当初は完成時計の販売ではなく、ジュネーブの販売店向けに高級ムーブメントを供給する形態であったと伝わる。1881年、事業は「Audemars Piguet & Cie」として正式に登記される。オーデマは技術と製造、ピゲは商務と販売という分業はこのとき確立され、生涯にわたり維持された。

3. 工業化に抗う十年

1880年代から1890年代にかけて、スイス時計産業は機械化と量産化の波に呑まれていった。しかしオーデマとピゲは敢えてその流れに抗い、一本ずつ手仕事で組み上げる複雑機構付き時計に専念した。1882年から1892年の十年間で同社が出荷した約1600本のうち、その八割が何らかのコンプリケーションを備えていたと伝わる。1892年には、後にオメガとなる工房に納めるミニッツリピーター搭載の腕時計を製作している。腕時計形式でリピーター機構を実現した最初期の例として記録される作品である。

4. 晩年と継承

1907年、創業地に隣接して最初の独立した工房棟を建設、職人を集約する体制を整えた。社業は次第に二代目のポール=ルイ・オーデマ(Paul-Louis Audemars)らに引き継がれていく。第一次世界大戦の只中の1918年10月15日、ジュール=ルイ・オーデマは逝去した。享年67。翌1919年には盟友ピゲもこの世を去り、創業二人組の時代は幕を閉じる。両家による経営は途切れることなく、オーデマ・ピゲは現代までスイス時計業界で唯一、創業家継承を維持し続けるメーカーとして残ることになる。

03 — Work

業績・代表作

What this person built

1. 「何を作らないか」という選択

オーデマ・ピゲ創業期の最大の業績は、特定のヒット作ではなく「何を作らないか」を決めたことにある。1875年の創業時、スイスの時計業界はすでに量産化の競争に入っていたが、ジュール=ルイ・オーデマは敢えて複雑機構付きの懐中時計に絞り込む道を選んだ。1882年に同社が世に出した最初のグランドコンプリケーション懐中時計は、その方針の最初の到達点である。技術責任者として彼が担ったのはムーブメントの設計と組み立ての監督であり、フィニッシャーとしての修業で培われた仕上げ精度への執着は、生涯にわたり同社のムーブメント観の基準となった。

2. 設計言語と工房文化

オーデマの設計哲学は二つの軸から成る。第一に、工業化に対して手仕事を貫くこと。第二に、コンプリケーションの完成度を生産量より優先することである。

具体的には、ムーブメントは外注に頼らず工房内の少数の職人で組み上げ、各個体に十分な調整時間を割く方式を維持した。販売はジュネーブやその他主要都市の大手商会・ジュエラー経由が中心で、ブルガリ、ティファニー、カルティエ、ギューブラン等に納めた時計は依頼主の名で世に出ることも多かった。これらは現在、ムーブメントに刻まれたシリアル番号からオーデマ・ピゲ製と判別される。表に出ない仕事を厭わず、機構の完成度のみで評価される下請けの立場を、創業者は意識的に引き受けた。

3. 腕時計時代への布石

1892年、オーデマ・ピゲはミニッツリピーター機構を搭載した腕時計を製作している。納入先は後にオメガとなる工房であったと伝わる。当時リピーターは懐中時計のための装置と見做されており、これを腕に巻ける寸法に収めたことは技術的な飛躍であった。同作は現在オメガ博物館に所蔵されており、20世紀の腕時計コンプリケーション史の起点のひとつとして言及される。

1899年に同社が世に出した「ユニヴェルセル(Universelle)」懐中時計は、ムーブメント設計をルイ=エリゼ・ピゲ(Louis-Élisée Piguet)が担当した協業作だが、製造母体は依然オーデマ・ピゲであった。1168部品・21機能を備えたこの懐中時計は、19世紀末のヴァレ・ド・ジューが到達した複雑機構の頂点として知られる。

4. 創業者を貫く一本の線

オーデマの仕事を貫く線は、「規模より純度」という選択である。同時代の競合各社が工場規模を拡大していった時期、オーデマ・ピゲは敢えて職人数十人規模を維持し続けた。1907年に最初の独立工房棟を建てた際も、生産規模の拡大ではなく職人を一所に集めることが主眼であった。この選択が結果として、20世紀の工業化と二度の世界大戦を経てなお創業家経営が残るという、現代スイス時計業界の特異点を生んでいる。

04 — Legacy

評価・後世への影響

What remains

オーデマ・ピゲは現在に至るまで、創業家であるオーデマ家とピゲ家による独立経営を維持している。スイスを代表する時計メーカーの中で創業家継承が続くのは同社のみであり、これはジュール=ルイ・オーデマとエドワール=オーギュスト・ピゲが築いた家族企業としての構造そのものに由来する。現在の副会長オリヴィエ・オーデマ(Olivier Audemars)はオーデマ家の直系である。

ジュール=ルイの名は、同社の現代のコレクション「ジュール・オーデマ(Jules Audemars)」として継承されている。1996年に発表された「ジュール・オーデマ・グランドコンプリケーション」は、創業者の名を冠したケースにミニッツリピーター・スプリットセコンドクロノグラフ・永久カレンダーの三大複雑機構を凝縮した作品で、創業者が定めた方向性を腕時計の形で再提示した代表例とされる。

存命中に同社が手がけた1899年の「ユニヴェルセル」懐中時計は、2023年に発表された「コード11.59 バイ オーデマ・ピゲ・ユニヴェルセル(RD#4)」の発想源として再評価された。19世紀末の到達点が約一世紀を経て、現代のグランドコンプリケーション腕時計として再構成された格好である。

オーデマ自身が表舞台で語ることは生涯少なかった。残された業績は、ル・ブラッシュのムゼ・アトリエ・オーデマ・ピゲ(Musée Atelier Audemars Piguet)に展示される懐中時計群と、創業家経営を貫いた現代の同社の姿そのものに集約されている。

05 — Works

この人物が関わったモデル