物語
01ジュネーブの異端児
1976年、カルロ・クロッコ32歳。彼はイタリアのビンダ・グループを離れ、スイスへ向かった。ビンダ・グループは時計ブランド「ブレイユ」を擁するイタリア有数の家業であり、クロッコはその家系に連なる人物だった。家業を継ぐべきとされた道を彼は選ばず、ジュネーブ郊外でMDMジュネーブという小さな会社を興した。
クロッコが構想していたのは、当時のスイス時計界の常識から大きく逸脱する時計だった。18金のケースに、天然ラバーのストラップを組み合わせる。ラバーは産業用部品の素材であり、貴金属と並ぶ存在ではない、というのが当時の常識である。彼はその常識を覆すために、ラバーの加工に3年を費やした。汗や塩、紫外線に耐え、表面の光沢を保つラバー。それは、海と港を連想させる素材だった。
ブランド名は「ウブロ」、フランス語で船窓を意味する。クロッコがモナコのヨットハーバーで船を眺めていた折の着想と伝わる。ベゼルに並ぶ12本のビスは、船窓を固定する金具の意匠そのものである。
02バーゼルでの沈黙、欧州での反響
1980年、ウブロはバーゼル時計見本市に登場した。しかしクロッコの回想では、会期の最初の2日間はほとんど誰も足を止めなかったという。重厚な伝統と複雑機構を競う見本市にあって、ラバーストラップの時計は理解されなかった。それでも、欧州の一部の富裕層と王族がこの異色の時計に目を留めた。実用と装飾、堅牢と軽快を両立する一本として、ウブロは静かな支持を獲得した。初年度の売上は約200万米ドルに達したと記録されている。
1980年代から1990年代にかけて、ウブロはニッチなブランドとしての地位を保ち続けた。クロッコは設計に専念し、商業的な拡大を急がなかった。
03ビバーの到来とビッグ・バン
世紀が変わる頃、クロッコは自身の関心が経営から離れていることを自覚していた。彼が設立した慈善財団「Main dans la main(手と手をつなぐ)」への注力もあり、後継者を必要としていた。2004年5月、オメガを離れたジャン=クロード・ビバーがCEOとして招かれる。
ビバーは、ウブロのDNAを否定せず、むしろ拡張する道を選んだ。フュージョン——融合という思想を中核に据え、2005年、ビッグ・バンを発表する。直径44ミリの大型ケース、剥き出しのビス、複層構造、そして再びラバーストラップ。発表年にビッグ・バンはバーゼルワールドで注目を集め、ブランドの売上は2004年から2007年にかけて約五倍に伸びた。
成長は外部の注目を集めた。2008年4月24日、LVMHグループによる買収が公表される。創業者クロッコとビバーが所有していた株式が譲渡され、ウブロはLVMHウォッチ&ジュエリー部門の一員となった。クロッコは、自身が常に大切にしてきた創造への情熱をLVMHは共有してくれる、と公式声明で述べたと伝わる。
04ニヨンの工房と素材の実験
2009年、ニヨンに新たなマニュファクチュールが落成した。LVMH会長ベルナール・アルノーが式典に出席し、新時代の幕が開かれた。翌2010年、ジュネーブ近郊の複雑機構専門メーカーBNBコンセプトが経営破綻した際、ウブロはその人員と技術資産を引き継いだ。BNB創業者のひとりマティアス・ビュテはR&D責任者に就任し、以後のウブロの素材実験を主導することとなる。
同2010年、ウブロ初の完全自社開発キャリバー「ウニコ」HUB1240が発表された。コラムホイールとダブル水平クラッチをダイヤル側に配置し、機構を見せることを設計思想の中心に据えた。330点の部品で構成される一体型クロノグラフであり、フライバック機能を備える。
2011年、ウブロは18金とホウ化炭素セラミックを融合した特許素材「マジック・ゴールド」を発表した。ダイヤモンドを除くいかなる物質でも傷つかない18金、という従来あり得なかった性質を持つ。同年11月5日、フェラーリ社とのパートナーシップが調印された。両者の関係は単発のコラボレーションではなく、機構共同開発を含む長期協業となった。
05リカルド・グアダルーペの十二年
2012年、ビバーはLVMHウォッチ部門全体の統括へ移り、長年ウブロを支えてきたリカルド・グアダルーペがCEOに就いた。グアダルーペ体制下で、ウブロはマスターピース(MP)コレクションを本格化させた。2013年のMP-05ラフェラーリは、横並びの11個の香箱によって50日間というパワーリザーブを達成し、当時の世界記録となった。
ニヨンの工房は素材研究の場へと拡張されていく。鮮やかなセラミック、彩色サファイア、自社合金SAXEM。それらは展示会のたびに新たな色と質感をもって披露された。2014年にはトノー型ケースのスピリット・オブ・ビッグ・バン、2018年にはウニコの第二世代HUB1280、2020年には初の一体型ブレスレット採用のビッグ・バン・インテグラル、2022年には角型ケースのスクエア・バン・ウニコが続いた。
06二十周年とその先
2024年9月1日、12年にわたりCEOを務めたグアダルーペは名誉会長へと退き、ゼニスとタグ・ホイヤーで実績を残したジュリアン・トルナーレが新CEOに就任した。2025年、ビッグ・バンは登場から二十周年を迎え、ジュネーブで記念モデルが発表された。トルナーレは、ビッグ・バンはブランドのアイコンであり続けるが、現代化された姿に進化させる、と語っている。2026年にはビッグ・バン・リローデッドが発表され、ウニコ機構の視認性をさらに高めた設計が示された。創業から四十六年、ブランドは依然として、まだ存在しない素材と組み合わせを探し続けている。