ジャック・ホイヤー
1932年生まれ。カレラとモナコを世に送り、時計とモータースポーツを結び付けたホイヤー家四代目の経営者
生涯
1. 技術者として家業へ
ジャック・ウィリアム・エドゥアール・ホイヤー(Jack William Edouard Heuer)は1932年11月19日、スイスのベルンに生まれた。1860年にサン・ティミエで工房を開いたエドゥアール・ホイヤーの曾孫にあたる。
チューリッヒ連邦工科大学(ETH)で電気工学を学び、生産管理の課程も修めた。学生時代はスイスの学生スキーチームに所属している。学業の合間に滞在したニューヨークでは、百貨店アバクロンビー&フィッチの売り場で時計を売った。
家業に入る意思は当初なかったという。父シャルル=エドゥアールから「一年だけ」と説得され、1958年にエドゥアール・ホイヤー商会へ技術者として入社する。翌1959年には、初の海外販売子会社ホイヤー・タイム・コーポレーションをニューヨークに設立した。
2. 二十代での継承と拡大
当時のホイヤー社は、父シャルル=エドゥアールと叔父ユベールが株式を折半していた。1961年、叔父が持ち分の売却を検討したことを機に、ジャックは自ら株式を買い取り、20代で筆頭株主となる。公式資料の多くはこの掌握を1962年と記す。
1964年、同社は競合していたストップウォッチ大手レオニダスを買収し、社名をホイヤー=レオニダスとした。スポーツ計時機器で有数の供給元となり、米国市場での販路も広がる。1972年には、米国のタバコ銘柄バイスロイとの提携でオウタヴィアを88ドルで販売する大型キャンペーンを展開した。
3. クォーツ危機と離別
1970年代後半、クォーツ化とスイスフラン高がスイス時計産業を直撃する。電子計時機器で先行していたホイヤー=レオニダスも、腕時計事業の採算が急速に悪化した。1982年、ジャックは同社をピアジェ・グループへ売却し、自ら会社を去る。四代・120年余り続いた家族経営の終わりであった。同社は1985年にTAGグループへ再売却され、タグ・ホイヤーとなる。
4. 家業の外での二十年、そして帰還
離職後はスイスの経営コンサルティング会社にパートナーとして加わった。並行して1983年から、香港の民生用電子機器グループIDT(Integrated Display Technology)の欧州組織づくりに取り組む。ドイツ、スイス、英国、フランス、イタリア、スペインに販売拠点を開き、欧州担当エグゼクティブ・ディレクターを務めた。2000年に同職を退いた後も、2005年まで顧問と役員の立場で関わっている。
1999年にLVMHがタグ・ホイヤーを傘下へ収めると、2001年、ジャックは名誉会長として迎えられた。歴史と技術遺産の語り部という役割である。2007年には米国のJIC(Jewelry Information Center)からジェム・アワードの生涯功労賞を受けた。2013年には自伝『The Times of My Life』を刊行している。
業績・代表作
1. カレラ ── 視認性を最優先した設計
1962年、セブリング12時間レースのピットで、ジャックはメキシコの公道レース「カレラ・パナメリカーナ」の名を耳にする。スペイン語で公道レース、走路、経歴を同時に意味するその語を、帰国後ただちに商標登録した。
翌1963年に発表されたカレラは、計器としての読みやすさを徹底した設計だった。分目盛りを風防を支えるテンションリングの傾斜面へ逃がし、文字盤の面を可能な限り空けている。装飾を削いだ構成には、ル・コルビュジエやイームズら近代デザインへの傾倒が反映されているとジャック自身が述べている。ラリー参加中にダッシュボード計時器の表示を読み違え、優勝を逃した経験が出発点にあったとも語られる。
2. オウタヴィアとモナコ
オウタヴィアは、1933年からホイヤーが供給していた自動車・航空機用ダッシュボード計時器の名である。automobileとaviationの合成語であるこの名を、ジャックは1962年に腕時計へ移した。回転ベゼルを備えたクロノグラフとして、レーシングドライバーの間に広がっていく。
1969年のモナコは、当時としては異例の角型防水ケースを採用した。ケースはスイスのエルヴィン・ピクレ社が開発したもので、ホイヤーが独占供給を受けたと伝わる。左側にリューズを置く構成は、自動巻機構をモジュールで加えた設計上の帰結でもあった。
3. 自動巻クロノグラフと電子計時への賭け
1969年3月3日、ホイヤー=レオニダスはブライトリング、ハミルトン傘下のビューレン、デュボア・デプラとの共同開発による自動巻クロノグラフ、キャリバー11を発表した。同じ年にはゼニスのエル・プリメロ、セイコーの6139も登場しており、「世界初」の帰属には現在も議論がある。
ジャックは半導体が計時の世界を変えると早くから見ていた。1/1000秒を計測する携帯型のマイクロタイマー(1966)、クォーツ式ストップウォッチのマイクロスプリット800(1972)、クロノスプリット(1975)と続く一連の製品は、その賭けの産物である。1976年のACITは各車に発信機を積んで自動識別と計時を行う方式で、現在のF1計時の原型になったとされる。
4. アンバサダー契約という発明
1969年、ジャックはF1ドライバーのジョー・シフェールと契約を結ぶ。レーシングスーツにブランド名を入れ、車体にデカールを貼る見返りとして、シフェールは製品を割引価格で仕入れ、同業者へ売る権利を得た。自動車業界の外からF1に入った最初期の例とされる。
1971年にはエンツォ・フェラーリと合意し、スクーデリア・フェラーリの公式計時を1979年まで担った。フィオラノのテストコースへ計時システムを納める対価を、現金ではなく車体の広告スペースで受け取る取り決めである。ドライバーには18Kゴールドのカレラが贈られ、裏蓋には名前と血液型が刻まれた。同じ1971年、映画『栄光のル・マン』でスティーブ・マックイーンがモナコを着用する。広告枠を買うのではなく、計時機器ごと競技の現場に入り込む。この手法は後年の時計業界で一般化した。
評価・後世への影響
ジャック・ホイヤーが在任中に送り出した3つの名は、いずれも現在のタグ・ホイヤーの中核に残っている。カレラ、モナコ、オウタヴィアはコレクションの柱であり続け、1960年代の設計が半世紀を超えて商品の骨格を規定している。創業家の経営は1982年に終わったが、ブランド名からホイヤーの文字が消えなかったことが、この連続性を支えた。
より広く継承されたのは、競技との関わり方である。広告枠を買うのではなく、計時機器ごと現場へ入り込み、ドライバーやチームと契約を結ぶ手法は、後年の時計業界で標準となった。自動車の外側にいた企業がF1の内部へ入る初期の例として、スポーツマーケティングの文脈でも参照される。
2001年に名誉会長として復帰して以降は、歴史の語り部としての役割を担った。自伝の刊行や資料の整理を通じて、1960年代から1970年代の記録が体系化されている。自身の名を冠した記念モデルが節目ごとに作られ、経営者個人がブランドの物語の一部として扱われる形が定着した。
一方で、電子計時への投資が腕時計事業の採算悪化と重なり、会社を手放す結果につながった経緯もある。技術の潮流を早く読んだことが、必ずしも企業の存続には結びつかなかった。この二面性を含めて、クォーツ危機期のスイス時計産業を象徴する経営者として位置づけられている。