設計思想
第二の旗艦シリーズが必要だった時代
グランドカレラは2007年に発表された、TAG Heuerにとって1987年のS/el以来となる完全新規のコレクションである。狙いはそれまでの顧客層より上の価格帯、GTカーの内装を思わせる演出で大人の購買層を取り込むことにあった。最大の独自性は「ローテーティング・システム(RS)」と呼ぶ表示方式で、スモールセコンドとクロノグラフ分積算を針ではなく回転ディスクで示す。キャリバー17 RSはこの方式を採用した43mmクロノグラフとして、コレクション発足時から中核を担った。
基幹Ref CAV511Aからの分岐
CAV511F.BA0902は、その基幹モデルである黒文字盤のCAV511A、シルバー文字盤のCAV511Bから派生した日本市場向け限定仕様である。ケース、ブレスレット、ムーブメントはすべて共通で、変更点は青い文字盤に集約される。現在でこそ青文字盤は各社の定番色だが、2000年代末の時点では通常コレクションに採用される例がまだ少なく、グランドカレラでも青はカタログ外の色だった。だからこそ限定の題材として選ばれたと考えられる。赤いクロノグラフ針との対比は黒文字盤以上に際立ち、本機の存在理由を一目で語る。
TAG Heuerにとって日本は伝統的に重要な市場であり、2008年のシンガポールGP記念モデルなど、この時期のブランドは地域単位の限定企画を相次いで投入していた。本機もその文脈の中にあり、世界共通の限定ではなく、特定市場の嗜好に応えるための1本として設計されている。
300本という規模と、その後
グランドカレラには生産期間を通じて9種ほどの限定モデルが存在したと伝わるが、本機はそのうち日本に割り当てられた1本である。300本という数は世界流通を前提としない規模であり、実際には日本国外へも一部が渡ったものの、現地以外で目にする機会は少ない。コレクション自体が2010年代半ばに整理され、後継の青文字盤仕様が現れないまま系譜が閉じたため、CAV511Fはグランドカレラ クロノグラフ唯一の青として残ることになった。
意匠分析
本機の設計はCAV511Aと同一の文法に立ち、唯一の変更である文字盤に観察が集中する。青の地は中央部と外周部で処理を変えた構成とされ、3時と9時のディスク開口部、6時の日付窓が左右対称に配される。ディスクにはコート・ド・ジュネーブ装飾と面取り研磨が施され、文字盤の一部でありながらムーブメントの部品でもあるというRS表示の二重性を視覚化している。多面カットされた植字インデックスと剣型の針は通常仕様と共通だが、赤いクロノグラフ秒針と赤の差し色は、青地の上でより強い対比を生む。
ケースは43mm径のスティール製で、タキメーター目盛を刻んだ固定ベゼル、ねじ込み式リューズ、ねじ込みロック付きプッシャーを備え、100m防水を確保する。装着感の面では、43mm径に22mmのラグ幅という量感あるプロポーションで、針とインデックスには夜光が施され、濃色の文字盤に対する視認性を確保している。多面処理された3連ブレスレットBA0902がケースの面構成を手首まで延長する。
シースルーバックからはCalibre 17 RSが覗く。ETA 2894-2を基礎とするモジュラークロノグラフで、毎時28,800振動 (4Hz)、約42時間のパワーリザーブを持ち、COSCクロノメーター認定を受ける。汎用ベースながら、ディスク表示モジュールと認定取得によって独自性を与えた構成である。限定各個体には通し番号が与えられ、300本中の何番かが判別できるようになっていると伝わる。
系譜と歴史
土台となるグランドカレラ キャリバー17 RSは2007年に発表され、黒とシルバーの2色の文字盤で展開が始まった。青文字盤のCAV511F.BA0902が加わるのは2009年のことで、日本市場向けの300本限定として企画された。限定モデルは通常の年次カタログに掲載されなかったため、正確な発売月を裏付ける一次資料は乏しく、発表時期は2009年中とされるにとどまる。なお同時期には英国市場向けにカーボン調文字盤のCAV511H.FC6306が250本限定で用意されており、地域別限定はキャリバー17 RSの系統で並行して展開されていた。販売は日本の正規流通を主としたが、一部の個体は早くから国外へ流出し、欧州の販売店でも確認例が報告されている。300本の生産をもって本Refの製造は完結し、以後の再生産や色違いの追加は行われていない。母体のグランドカレラ コレクション自体も2015年頃までにカタログから姿を消し、翌年以降のクロノグラフ戦略はカレラ ホイヤー01系へと引き継がれた。現在のTAG Heuer公式ラインアップに本Refの掲載はなく、結果としてCAV511Fは、シリーズの短い歴史の中で一度だけ現れた青として、生産終了モデルのまま現在に至っている。