物語
01ドレスデンの徒弟、グラスヒュッテへ
フェルディナント・アドルフ・ランゲは1815年2月25日、ドレスデンに生まれた。1830年からザクセン宮廷時計師ヨハン・クリスティアン・フリードリヒ・グトケスのもとで修業に入る。グトケスは後にドレスデン・ゼンパー・オーパーの「5分時計」を手がける人物であり、ランゲは彼の娘アントニアと結婚することとなる。
修業の後、ランゲはパリ、ロンドン、スイスを巡って研鑽を積み、1840年代初頭にドレスデンへ戻る。ザクセン政府はエルツ山地の貧しい村グラスヒュッテの再生策を模索しており、ランゲは時計製造を産業の核に据える提案を行った。1845年12月7日、内務省から7,800ターラーの融資を得て、15名の弟子とともに「A. Lange & Cie.」を発足させる。経済基盤の脆弱な土地での操業は容易でなく、1875年に従業員70名規模に達するまで地道な年月が続いたと伝わる。
02二代目兄弟の時代
1868年、息子リヒャルトとエミールの加入を機に社名は「A. Lange & Söhne」へ改められた。1864年に導入された洋銀製の3/4プレートは、ムーブメントの安定と仕上げの面積を両立させる構造として定着し、グラスヒュッテ流の象徴となる。リヒャルトは精度追求と機構特許に深く関与し、エミールは1900年のパリ万国博覧会で「世紀のトゥールビヨン(Century Tourbillon)」を出品して国際的評価を確立した。
19世紀後半から20世紀初頭にかけ、同社の懐中時計はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、オスマン帝国スルタン・アブデュルハミト2世、ロシア皇帝アレクサンドル2世らに渡ったと伝わり、グラスヒュッテの名は欧州宮廷文化に組み込まれていった。
03戦争と消滅
20世紀前半、フェルディナントの孫世代が経営を継ぐ。第二次大戦期、グラスヒュッテの時計産業は海軍用航海クロノメーターや空軍用観測時計を製造する役割を負った。1945年5月8日、ドイツの降伏が効力を迎えるわずか数時間前、ソ連空軍の空襲により本工場は壊滅的な被害を受ける。ヴァルター・ランゲは負傷からの療養休暇で前日の5月7日に帰郷しており、翌朝の破壊を目撃したと回顧している。
戦後ザクセンはソ連占領地区に置かれ、家族は1946年の最初の接収企図を一度はかわしたものの、1948年4月20日に企業は最終的に接収され「VEB Mechanik Lange & Söhne」と改称される。同年11月、強制労働を回避するためヴァルター・ランゲは西側へ脱出。1951年、街の時計工房すべては国営「VEB Glashütter Uhrenbetriebe(GUB)」へ統合され、ランゲの名は文字盤から消えた。
041990年、再建
1989年のベルリンの壁崩壊と翌年の東西ドイツ統一は、当時66歳のヴァルター・ランゲにとって40年来の機会となる。元IWC・ジャガールクルト経営者のギュンター・ブリュムラインを共同創業者に迎え、1990年12月7日——創業からちょうど145年後の同じ日——にドレスデン商業登記所へ「Lange Uhren GmbH」を登録した。商標を再取得し、ザクセン精密時計の伝統を21世紀へ橋渡しする事業を始動させる。
051994年の発表とその後
1994年10月24日、ドレスデン王宮にて再建後の初コレクションが発表された。Lange 1、Saxonia、Tourbillon Pour le Mérite、Arkadeの4本である。中でもLange 1は、グトケスが手がけたゼンパー・オーパーの5分時計を着想源とするアウトサイズ・デートと、黄金比に基づく非対称ダイヤルを備え、近代を代表する独立した意匠として広く受け入れられた。1999年のダトグラフは、フライバック機能を備えた自社開発手巻きクロノグラフとして発表され、スイス勢にインハウス・キャリバー開発の必要性を強く意識させた。
2000年、Lange Uhren GmbHはスイスのリシュモングループ傘下に入る。資本基盤を得てもなお、年産5,000本前後の抑制と完全自社開発キャリバーの方針は維持された。2009年のZeitwerkは、機械式でありながら時分を大型の跳ね数字で表示する独自概念により、現代時計史に新たな章を加えている。
06現在
2011年からヴィルヘルム・シュミットがCEOを務める。2001年にギュンター・ブリュムライン、2017年にヴァルター・ランゲが逝去したが、再建期に確立された方針——自社開発キャリバーのみ、年産抑制、複雑機構と仕上げの両立——は揺らがない。2019年に発表されたOdysseusは、ブランド初の量産ステンレススチール製スポーツウォッチであり、Saxonia、1815、Richard Lange、Zeitwerk、Lange 1に続く6番目のコレクションとなった。