ヴァルター・ランゲ
A.ランゲ&ゾーネを四十年の中断から再び立ち上げた、グラスヒュッテの時計実業家(1924-2017)
ヴァルター・ランゲ(Walter Lange、1924–2017)は、ドイツ・ザクセン州グラスヒュッテに育った時計実業家である。1845年創業の名門A.ランゲ&ゾーネ(A. Lange & Söhne)を興したフェルディナント・アドルフ・ランゲの曽孫にあたり、第二次大戦後の東独国有化により1948年に消滅した家業を、ドイツ再統一を機に1990年に再興した。設計や製造に直接関わる時計師ではなく、グンター・ブリュームライン(Günter Blümlein)と組んで現代A.ランゲ&ゾーネの礎を築いた経営者・象徴的存在として、二十世紀末のグラスヒュッテ復興を主導した人物である。
生涯
1. 時計師の家系に生まれて
ヴァルター・ランゲは1924年7月29日、ザクセン州ドレスデンで生まれた。父ルドルフ・ランゲ(Rudolf Lange)はA.ランゲ&ゾーネを率いたエミール・ランゲ(Emil Lange)の息子で、ヴァルターは創業者フェルディナント・アドルフ・ランゲ(Ferdinand Adolph Lange、1815–1875)から数えて四代目にあたる。幼少期をグラスヒュッテで過ごし、父について工房に出入りしながら家業を継ぐ将来を疑うことはなかったと、晩年の自伝『Als die Zeit nach Hause kam』(When Time Came Home)で語っている。グラスヒュッテで初等教育を、ドレスデンで中等教育を終えたのち、1941年、十七歳でオーストリア・カールシュタイン(Karlstein)の時計学校に進んだ。
2. 戦争、亡命、家業の消滅
1942年、十八歳のランゲは徴兵される。東部戦線で重傷を負い、1945年5月7日にグラスヒュッテへ戻った翌日、A.ランゲ&ゾーネの本社工場は連合軍の空襲で大半を喪失した。戦後、グラスヒュッテはソ連占領地区に組み込まれ、1948年、A.ランゲ&ゾーネを含む同地の時計企業はすべて国有化された。ランゲ家にはウラン採掘労働への従事が命じられたと伝わる。ヴァルター・ランゲは同年11月、両親を残して西側へ亡命した。
3. プフォルツハイムでの四十年
亡命先に選んだのは、宝飾と時計の伝統を持つ南西ドイツのプフォルツハイム(Pforzheim)である。弟フェルディナント・アドルフとともに「オリジナル・ランゲ・ウーア」(Original Lange Uhr)の名で家業の再興を試みたが、これは軌道に乗らなかったとされる。以後ランゲは時計・置時計の流通業者として堅実な事業を営みつつ、再びグラスヒュッテへ戻る日を諦めなかったと、自身が後年に語っている。
4. 再統一、そして再興
1989年11月のベルリンの壁崩壊は、六十五歳のランゲに最後の機会をもたらした。LMH(Les Manufactures Horlogères)グループを率いるグンター・ブリュームラインの呼びかけに応じ、1990年12月7日 — 創業者F.A.ランゲが1845年にグラスヒュッテで工房を開いた日からちょうど145年後 — ランゲ・ウーレンGmbH(Lange Uhren GmbH)を設立する。1994年10月24日、ドレスデン王宮で再興後最初の四本のリストウォッチが発表された。以後ランゲは経営の表舞台を徐々に後進に譲りながらも、ブランドアンバサダーとして晩年まで現役を続け、2017年1月17日、奇しくも開催中であったSIHHの初日に世を去った。享年92。
業績・代表作
1. 再興 — 1990年12月7日
ランゲの最大の業績は、戦後40年余りにわたり国家の手中にあった家業の名を、私企業として再生させたことである。1990年12月7日、彼はドイツ再統一直後のグラスヒュッテにランゲ・ウーレンGmbHを登記した。当時66歳。設立にあたり彼が語ったとされる「我々には、つくって売れる時計も、従業員も、工場も、機械もなかった。世界最高の時計をグラスヒュッテで再びつくる、というビジョンだけがあった」という言葉は、再興初期の状況を端的に伝えている。
2. ブリュームラインとの分業
再興は単独ではなく、共同事業として実現した。技術と経営の中核を担ったのはLMHを率いるグンター・ブリュームライン(Günter Blümlein、1943–2001)で、姉妹会社IWCとジャガー・ルクルトから人材・ノウハウ・資金が惜しみなく投入された。最初の技術者たちはシャフハウゼンのIWCで研修を受け、ランゲ1(Lange 1)の設計には永久カレンダー機構で知られるIWCのクルト・クラウスが直接関与したと記録されている。1994年10月24日、ドレスデン王宮で発表された再興第一作 — ランゲ1、ツアービヨン・プールメリット、サクソニア、アルカーデの四本 — は、この二人三脚と姉妹ブランドの後援なくしては成立しなかった作品群である。
3. 「過去への橋」という役割
ランゲ自身は時計師として工房の前線に立つ人ではなかった。経営判断はブリュームラインが主導し、ランゲは創業家の継承者、社内外への顔、職人と顧客との橋渡し役を担った。本人もしばしば「私は過去への橋である(Ich bin die Brücke zu unserer Vergangenheit)」と語ったと伝わる。グラスヒュッテの旧工場跡地、F.A.ランゲ廟、創業家屋敷 — 物理的・歴史的な連続性を、再興ブランドが標榜する権利を、彼の存在が静かに担保した。2000年、戦後に国家へ接収されたランゲ家の歴史的本社屋敷を買い戻したことについて、本人は「思い出すと今でも胸が痛む」と後年語っている。
4. 若い時計師への投資
ランゲは経営から退いた後も、若手育成に強い関心を寄せ続けた。1997年に開校されたランゲ社内の時計学校を頻繁に訪れ、卒業審査の場にも姿を見せたと伝わる。世代から世代へ技術を引き渡すこと、グラスヒュッテに雇用と誇りを取り戻すこと — この二点を晩年の主要関心事として繰り返し語ったと記録されている。グラスヒュッテの時計産業は2010年代までに千名規模の雇用を生むまでに復活したが、その過半はA.ランゲ&ゾーネによるものである。
評価・後世への影響
1. 没後の追悼作品 — 1815 Homage to Walter Lange
ランゲの没後ほぼ一年後、A.ランゲ&ゾーネは2018年のSIHHで「1815 オマージュ・トゥ・ヴァルター・ランゲ」を発表した。生年1924にちなみキャリバーL1924を新規開発し、リファレンス番号は生月日(7月29日)を示す297に始まる。生前のランゲが愛好し開発を促したとされる秒針ジャンピング(デッドビート秒)機構 — 曽祖父F.A.ランゲ家系に由来する19世紀の複雑機構の現代的再解釈 — を搭載する。ホワイトゴールド145本、ピンクゴールド90本、イエローゴールド27本、そしてランゲ社として極めて異例のステンレススチール一点が製作され、スチール製は児童慈善団体Children Actionへの寄付のためチャリティーオークションに付された。
2. グラスヒュッテの記念像と継承制度
2020年9月18日、グラスヒュッテ製時計175周年を機に、聖ヴォルフガング教会前広場に等身大のブロンズ像が除幕された。ハンブルクの彫刻家トーマス・ヤストラム(Thomas Jastram)による作で、台座を設けず通行人と目線の高さで向き合う構図は、本人の人柄を反映したものとされる。広場を挟んで対面に立つのは、曽祖父F.A.ランゲの記念碑である。2022年、A.ランゲ&ゾーネは社内時計学校を「ヴァルター・ランゲ訓練・継続教育センター」と改称し、晩年彼が最も力を注いだ後進育成の意志を制度として残した。生誕100年にあたる2024年7月29日には、自伝『Als die Zeit nach Hause kam』の新版がEcon-Verlagから刊行されている。