物語
01二人のドレスデン人
1826年、カール・モリッツ・グロスマンは郵便仕分け人の息子としてドレスデンに生まれた。家計に余裕はなかったが、教師たちは少年の才能を見抜き、ドレスデン技術教育施設の奨学生に推薦した。時計師として徒弟期間を終えると、20歳の彼は修業の旅に出る。ロンドン、ハンブルク、パリ、ストックホルム、コペンハーゲン、ラ・ショー・ド・フォン。当時の欧州時計産業の主要拠点を歩き、見聞を蓄えた。
1854年、フェルディナント・アドルフ・ランゲから一通の招きが届く。9年前にエルツ山地の寂れた鉱山町グラスヒュッテに移り、新しい時計産業を興そうとしていた友人からの誘いであった。グロスマンはこれに応じ、同地に自身の工房を構える。
02教育者としての顔
グロスマンは時計師としてだけでなく、地域社会の中心人物としても歩んだ。市議会議員、ザクセン王国議会代議士、複数の協会の設立、ミューグリッツ谷鉄道建設委員会の長。多忙な公職の合間に彼は学術書を著した。1878年、フランスのソーニエ著『時計学教本』をドイツ語に翻訳し、同年、自らの構想によりドイツ時計学校をグラスヒュッテに設立する。技術を秘匿せず後進に開く姿勢は、当時の時計師としては例外的であった。
自著『単純でありながら機械的に完璧な時計の構築』には、彼の信条が凝縮されている。複雑機構を競うのではなく、基本構造の純度を高めることこそ時計師の本懐であるという立場である。
03中断と忘却
1885年1月23日、グロスマンはライプツィヒで世界時刻に関する講演を行った直後、脳卒中により急逝した。58歳であった。後継者は現れず、工房は解体された。ロンドンのドイツ時計師協会は記念のプレートを贈っている。公式の年表はこれを現存しないとする一方、生誕200年の公式資料は肖像画とともにグラスヒュッテのドイツ時計博物館に収蔵されているとしている。
その後120年以上、グロスマンの名は文献の中でのみ生き、製品として復活することはなかった。隣接するA.ランゲ&ゾーネが第二次大戦と戦後分断を経て1990年に再生したのとは対照的に、グロスマンは商標も含めて静かに眠り続けた。
04キッチンテーブルから始まる再興
ミュンヘンで時計師の訓練を受けたクリスティーネ・フッターは、ヴェンペ、モーリス・ラクロワ、グラスヒュッテ・オリジナル、A.ランゲ&ゾーネで販売とマーケティングの経験を積む。その中でグロスマンの遺産に触れた彼女は、家族の助けを得てブランドの権利を確保した(2007年とされる)。その後スイスの Haute Horlogerie Schindler で経営に携わりながら、構想を温め続けた。
2008年11月11日、世界金融危機のさなかに、フッターはスイスの投資家の支援を得て Grossmann Uhren GmbH をグラスヒュッテに設立する。構想段階の作業はドレスデンから進めたとされ、2009年にはグラスヒュッテに事務所と店舗を借りて拠点を移した。2010年に新時代の最初のモデル Benu を発表し、2013年にはウファーシュトラーセ1番地の新マニュファクチュールの落成とともに Benu Power Reserve、Atum、Benu Tourbillon を加えた。
05現代における選択
現代のグロスマンは、年産500本以下という小規模を維持している。ねじは青焼きではなく褐紫色に発色させ、針は最後の艶出しまで自社内で手仕上げする。ムーブメントは一度組み立てて調整したのちに分解し、装飾を施してから再度組み立てるという二度組方式を採用する。Benuのほかに、Atum、Tefnut、Hamatic、Backpage、Tremblage、Corner Stone、Perpetual Calendarといった派生を慎重に発表してきたが、根本にあるのは創業者が遺した「単純でありながら機械的に完璧」という信条である。資本傘下に入らず独立を保つ姿勢は、フッター体制下のもう一つの選択といえる。再興から20年に満たないこの工房が、隣接する歴史ある同業者と並んで語られる位置に至ったのは、信条をぶれずに繰り返し製品へ翻訳してきた結果である。