物語
01飛行士が始めた時計商
ヘルムート・ジンは1916年、当時ドイツ領だったメスに生まれた。第二次大戦中は飛行士として、また計器飛行(視界に頼らない盲目飛行)の教官として空に関わった人物である。1961年、彼はフランクフルトで自らの名を冠した会社「ヘルムート・ジン・シュペツィアルウーレン」を立ち上げた。扱ったのはコックピット用の航空計器と操縦士向けクロノグラフであり、設計はジン自身が指示し、製造はスイスのメーカーに委ねられた。
ジンの商売を特徴づけたのは、小売店を通さない直接販売である。中間マージンを省くことで、性能に見合う価格を顧客に提示できた。せっかちで行動の速い性格から「シュネル・ヘルムート(速いヘルムート)」と呼ばれたとも伝わる。1979年、クォーツ危機でブライトリングが生産を停止すると、ジンはナビタイマーの部品とムーブメントを買い取り、自社の903として売り出した。一部の個体には旧ブランドの刻印が残っていたという。
02宇宙へ届いた自動巻き
1985年、物理学者で宇宙飛行士のラインハルト・フラーが、黒いPVDコーティングのジンの自動巻きクロノグラフ(140系統)を身に着け、スペースシャトル・チャレンジャー号のスペースラブD1ミッション(STS-61-A)で宇宙へ向かった。時計はフラー自身が購入した私物であり、無重力下でも自動巻きが正常に作動することを示した。ジンはこれを長く「宇宙で初めての自動巻きクロノグラフ」として紹介してきた。ただしこの主張には異論がある。1973〜74年のスカイラブ4号で米国の飛行士ウィリアム・ポーグが私物のセイコー6139を着用しており、今日ではこちらが先行例と見なされることが多い。フラーが着けた正確な型番(141系か142系か)についても収集家の間で議論が残る。1992年にはクラウス=ディートリヒ・フラーデが142 Sをミール宇宙ステーションへ持ち込んでいる。
031994年——技術者への継承
1994年9月1日、78歳になっていたヘルムート・ジンは会社を技術者ロタール・シュミットに売却した。シュミットは社名を「ジン・シュペツィアルウーレン」に改め、ブランドは新たな時代へ入る。1949年ザールラント州生まれのシュミットは、ザールブリュッケンで工学を学び、1981年からIWCでケースとブレスレットの生産立ち上げを担い、チタンやセラミックなど扱いの難しい素材の実用化に取り組んだ。1990年から93年にかけては、再興されたA.ランゲ&ゾーネ(当時IWC傘下)の生産立ち上げにも関わっている。
わずか十数名の小所帯を引き継いだシュミットが最初に世に出したのは、純チタン製で磁場保護を備えた244であった。商業中心だったブランドの軸を、研究開発へと移す転換点である。一方、会社を手放したヘルムート・ジンは翌1995年にスイスのギナンを取得し、高齢になっても起業家であり続けた。2018年、101歳で世を去っている。
04課題を解く技術
シュミット体制下のジンは、時計が壊れる原因を一つずつ技術で取り除いていった。1995年には保護ガスと硫酸銅カプセルで湿気を抑えるAr除湿技術を203 Ti Arに搭載。1996年には潜水時計のケースにオイルを満たすHYDRO技術を現在の形にまとめ、403 HYDROを発表した。1997年には任務用計時器EZM1とEZM2が登場する。EZM1はドイツ税関の特殊部隊ZUZと協働して開発され、視認性を極限まで高めた左リューズのクロノグラフであった。1998年には特殊オイルとの組み合わせで−45度から+80度まで作動する耐温度技術を確立(303 Kristall)。2001年には無注油のDIAPAL脱進機、2003年にはステンレス表面を硬化させるTEGIMENT技術を実用化した。2005年には独逸潜水艦由来の鋼材を用いたダイバーズU1を発表し、U系列が始まる。
05規格と継承
2012年、ジンはアーヘン応用科学大学と組み、操縦士用時計の技術基準TESTAFを策定した。これを土台に、業界各社の参加を得て2016年にDIN 8330が成立する。数十年ぶりとなるドイツの新しい時計規格であり、ジンの103 Ti IFRなどが最初期の認証を受けた。自社の道具観を国家規格へと結晶させた出来事である。
2017年にはフランクフルト・ゾッセンハイムの新社屋へ移転。2024年にはシュミット体制30年の節目を迎え、退役潜水艦U15のスクリューが本社前に据えられた。2025年にはU系列20周年を記念する特別モデルが発表されている。同年12月には、社内から登用したアンドレアス・ヘルツェルとジモーネ・リヒターが経営に加わり、オーナーであるシュミットとともに指揮を分担する体制へ移行した。長期の安定を見据えた継承の一歩である。