ジェラルド・ジェンタ
ロイヤルオーク、ノーチラスを手がけ、20世紀後半の高級スポーツウォッチを方向づけたスイスの時計デザイナー
ジェラルド・ジェンタ(Gérald Genta、1931-2011)はスイスの時計デザイナーである。ジュネーブの宝飾見習いから出発し、20歳でユニバーサル・ジュネーブに入社。23歳で「ポレラウター」を手がけた後、フリーランスとして複数の老舗ブランドの仕事を引き受けた。代表作はオーデマ・ピゲ「ロイヤルオーク」(1972年)、パテック・フィリップ「ノーチラス」(1976年)、IWC「インヂュニアSL」(1976年)、ブルガリ「ブルガリ・ブルガリ」(1977年)。ステンレススチールと統合ブレスレットによる高級スポーツウォッチの文法を確立し、時計デザイナーという職能を業界内で確立した人物として知られる。
生涯
1. ジュネーブの宝飾見習いから時計の世界へ
ジェラルド・シャルル・ジェンタ(Gérald Charles Genta)は1931年5月1日、スイス・ジュネーブに生まれた。母はスイス人、父は北イタリア・ピエモンテ系である。少年期から絵を描き続けていたジェンタは、ジュネーブの美術学校で宝飾デザインと金細工を学び、20歳でスイス連邦資格を取得する。
最初の職場は、当時クロノグラフ製造で名を馳せたユニバーサル・ジュネーブであった。1954年、23歳のジェンタは、スカンジナビア航空(SAS)による北極経由のコペンハーゲン—ロサンゼルス便就航に合わせた記念モデルの設計を任される。これが「ポラルーター」(後にポレラウターに改名)であり、彼の長いキャリアの起点となった。地磁気の影響を受けにくい構造とねじれたラグを備えたこの一作は、就航式の乗務員に贈られたのち、ユニバーサル・ジュネーブを代表する継続的なシリーズへと発展する。
2. フリーランスとしての確立と独立ブランド
1950年代末から、ジェンタは特定の雇用先を持たないフリーランスデザイナーとして、複数ブランドの仕事を並行して引き受けるようになる。オメガでは1960年代半ばの「Cケース」コンステレーション(Ref. 168.009、1964年)を手がけた。なお、しばしばジェンタの作と語られる「パイパン」文字盤はジェンタのオメガ参画以前から存在しており、Cケースの完全な統合デザインこそが彼の確認されているオメガ作品とされる。
1969年、ジェンタは自身の名を冠した「ジェラルド・ジェンタ」ブランドを設立する。妻エヴリーヌが経営面を、ジェンタが設計と製品を担う体制で、最盛期にはスイス国内に二つの工場と約250人の従業員を擁したと伝わる。クォーツ・ショック直前という時計産業の転換点に、デザイナー個人の名を冠したブランドを立てた点は当時としては異例であった。
3. 1970年代の代表作群
ブランド横断の仕事は1970年代に頂点を迎える。1971年にオーデマ・ピゲから受けたバーゼル発表前夜の依頼が、翌年の「ロイヤルオーク」となる。1976年にはパテック・フィリップの「ノーチラス」、IWCの「インヂュニアSL」、1977年にはブルガリ初の腕時計「ブルガリ・ブルガリ」、そして1985年にはカルティエ「パシャ」のリインタープリテーションを手がけた。本人やブランドの公開資料によれば、生涯に手がけたデザインは数千点から十万点を超えるとされる。
4. 晩年と没
ジェラルド・ジェンタ・ブランドの所有権は、1996年にシンガポールのザ・アワー・グラスへ移り、2000年にブルガリが取得する。同じ2000年前後、ジェンタは自身の二つのファーストネームを冠した新ブランド「ジェラルド・シャルル」を設立した。同社は2003年に投資家グループへ売却されたが、ジェンタ本人は設計責任者として在籍を続け、2006年には自身の愛称を冠した「マエストロ」コレクションを発表する。並行して絵画や彫刻、オートマトンの制作にも取り組み、生涯デザインの仕事を止めなかったと伝わる。ジェラルド・ジェンタは2011年8月17日、ジュネーブにて80歳で没した。
業績・代表作
1. 三本のスポーツラグジュアリー
ジェンタの業績の中心にあるのは、1970年代に発表された三本のスチール製スポーツウォッチである。1972年のオーデマ・ピゲ「ロイヤルオーク」、1976年のパテック・フィリップ「ノーチラス」、同じく1976年のIWC「インヂュニアSL」。いずれも来歴の異なる三つの老舗ブランドのカタログの中で、ステンレススチール製のケースとブレスレットを一体化させた、八角形ないし円弧基調の共通した語法を提示している。
ロイヤルオークはバーゼル前夜の依頼から一晩で生まれたと伝わる。古い潜水ヘルメットの八角形と外周のビス頭が、ベゼルに八本のビスを配する着想の源となった。当時のステンレス製腕時計は安価な実用品の領域であり、3,300スイスフランという初代モデルの定価はロレックス サブマリーナーの約十倍に達したと記録される。発表時の評価は割れたが、最初の千本は完売し、以後の高級スチール製スポーツウォッチの市場を切り拓いた。
ノーチラスはバーゼルの食事中に、紙ナプキンに数分で描いたと本人が語っている。船舶の舷窓を意匠の起点とし、ケース側面の二つの「耳」がヒンジを連想させる。これらの作品で示された「ステンレスは廉価ではなく、仕上げと設計でこそ高級になる」という前提は、それまでの時計産業の常識を覆すものであった。
2. 設計言語の核
ジェンタの作品を貫くのは、ケースとブレスレットを一個の彫刻として扱う発想である。接続部位を意識させない統合構造、機械加工の機能美を露出させる外装ビス、サテンと鏡面の境界線を明示する表面仕上げのコントラスト。これらの要素は、ロイヤルオーク、ノーチラス、インヂュニアSLで異なる形で現れながら、同じ設計思想を共有している。
宝飾デザイナーとしての出自も無視できない。ジェンタは1950年代後半のユニバーサル・ジュネーブ「ポレラウター」で、後年に発展する細部—ねじれたラグ、左右対称性の崩しかた—をすでに披露している。本人は建築や自然、ダリ、ミロ、ピカソ、アニッシュ・カプーアといった画家・彫刻家から着想を得たと述べており、「他の腕時計を参照したことはない」と妻エヴリーヌが伝えている。参照源は時計業界の外にあった。
3. 時計デザイナーという職能の確立
ジェンタが業界に残した影響のうち、特に大きいのは「時計デザイナー」という職業を社会的に可視化した点である。1960年代までは、外部デザイナーは銘記されない裏方であり、作品はブランドの集団的成果として語られた。ジェンタはフリーランスとしてブランド横断的に仕事を引き受け、1969年には自身の名でブランドを立ち上げ、2000年前後には新ブランド「ジェラルド・シャルル」も設立する。彼の軌跡は、独立した時計デザイナーという立場の成立そのものでもあった。
また、ステンレススチールの位置づけを変えた功績も大きい。ロイヤルオーク以降、複数のブランドが「ラグジュアリースポーツ」の領域に参入し、現在もこの領域は高級時計市場の中核を占める。
4. 自身のブランドでの複雑時計
1969年に設立した「ジェラルド・ジェンタ」のもとでは、外部ブランドの仕事では実現しにくい意匠を展開した。ミニッツリピーターや永久カレンダーを内蔵した複雑時計、ジャンプアワーとレトログラード分針を組み合わせた「ビ・レトロ」(1996年)、グランドソヌリ(1994年)はいずれも自社の枠でこそ可能な実験であった。ミッキーマウスを文字盤に置いた18Kゴールド時計群は、高級時計の伝統と大衆文化の境界を意識的に揺らす試みでもあった。
評価・後世への影響
ジェンタの没後、彼が手がけた腕時計のオークション市場での評価は急速に上昇した。初期型ロイヤルオーク「Aシリーズ」(Ref. 5402ST)、初期型ノーチラス(Ref. 3700)はいずれもヴィンテージ市場の中心となり、現行のロイヤルオーク、ノーチラスも高い人気を維持している。これらが「ジェンタが設計した」という事実は、現在も各ブランドの公式広報において繰り返し参照される。
未亡人エヴリーヌ・ジェンタは、夫の遺品とアーカイブを管理し、ジェラルド・ジェンタ・ヘリテージ・アソシエーションを設立した。同団体は未発表デザインを含む大規模なアーカイブを保有し、若い時計デザイナーへの支援活動も行っている。
2023年、LVMHグループ傘下のラ・ファブリック・デュ・タン・ルイ・ヴィトンが、それまでブルガリ傘下にあった「ジェラルド・ジェンタ」ブランドを引き継ぐと発表した。1980年代から1990年代にかけてジェンタと協働した時計師ミシェル・ナヴァスとエンリコ・バルバジーニが、エヴリーヌの協力のもとで再興を主導する体制となっている。同年のオンリー・ウォッチ2023にて新生ジェラルド・ジェンタの最初の一本が公開され、その後はディズニーモチーフを継承するモデルも発表されている。
時計デザイナーという職能の確立、そしてステンレススチールを高級素材として再定義した点で、ジェンタの影響は2020年代の独立系時計界にも色濃く残っている。