設計思想
1. 2006年、ノーティラス30周年に投じられた一手
ノーティラスは1976年にGérald Gentaのデザインで誕生し、時分と日付のみの単純な構成のままおよそ四半世紀展開されてきた。最初の複雑機構が加わったのは1998年のRef.3710/1A、文字盤上部にパワーリザーブを備えた仕様である。さらにムーンフェイスと日付サブダイヤルまで編み込んだのが、2005年のRef.3712/1A。そして翌年、シリーズ30周年に向けた大規模刷新の一環として登場したのが、本Refである5712/1A-001である。
Baselworld 2006で、Patek Philippeは時分のみの5711/1A、複合複雑機構の5712、フライバック・クロノグラフの5980を同時に披露した。スポーティな外装にドレス由来の薄型機構を編み込み、複雑機構を加えても基本造形を崩さない。「複数の方向に拡張可能なアイコン」というシリーズ観を示す、節目の発表となった。
2. 3712/1Aからの継承と更新
外観の家族的類似に反し、3712/1Aと5712/1A-001はケース構造から異なる。3712は初代3700/1Aを引き継ぐモノブロック2ピース構造で、文字盤側からムーブメントを組み込む方式だった。これに対し5712は、以後のノーティラス全体に展開される3ピース構造に転じている。製造容易性の改善とねじ込み式リューズの採用、ラグ(「耳」)形状の見直しまで、外装は静かに大規模な改修を受けた。
一方、ムーブメントは変更されていない。1977年のCal.240を土台に、プチセコンド・パワーリザーブ・カレンダー・ムーンフェイズを編み込んだ派生Cal.240 PS IRM C LUを、3712からそのまま継承する。3712を試作的に世に問い、5712で量産形にする——短命に終わった前任Refの存在意義は、この移行設計にあったと読める。
3. シリーズ史における位置と、生産終了まで
5711/1Aが時分のみの「基準点」、5980/1Aがクロノグラフによる「拡張」だったのに対し、5712は薄型自動巻ベースに複合複雑機構を編み込んだ「もう一つの拡張軸」を担った。非対称配置のサブダイヤルは賛否を呼んだが、ノーティラスのデザイン語彙が対称性に縛られず複数機能を成立させ得ることを実証したと言える。約19年の生産を経て、2025年2月に5712/1A-001は静かにカタログから外された。2026年現在、現行ラインに残る5712はローズゴールド・ブレスレットの5712/1R-001(2022年発表)のみである。
意匠分析
ケース径は40mm、ステンレススチール製。3712/1Aから外装を全面再設計しつつ、ムーブメントと文字盤の基本構成は受け継ぐ形となった。ケースは3ピース構造に転じ、ラグの曲率や側面の処理が見直され、リューズはねじ込み式に改められた。複合複雑機構のコレクターを保護する観点から、防水性能は60mに抑えられている。これら一連の改訂は、見た目の連続性を保ちながら、その後のノーティラス全体に展開される製造プラットフォームへの移行を意味した。
文字盤は深い青から外周の黒へ沈むグラデーション。横方向のエンボス、すなわちノーティラス固有の水平グルーヴが施され、10個の18K金製ルミナス・バーインデックスが配置される。複合複雑機構の表示は明確に非対称である。10時から11時にかけて弧を描くパワーリザーブ・インジケーター、7時から8時のあいだに大きく置かれた日付針とムーンフェイスの統合表示、そして4時のスモールセコンド。複数の独立した情報を機械の制約と文字盤の幾何で読みやすく振り分けた結果であり、対称性に拠らないノーティラスのデザイン言語の一つの解となっている。
細部には継続的な手入れの痕跡が残る。発表当初の2006年から2008年頃まで、パワーリザーブ目盛は「48」の脇に赤い小さな点を1つだけ備えていた。その後、終端側にもう1つの点が加わる仕様変更が静かに入っており、後年の個体の多くは2点仕様となる。
ムーブメントは21,600振動 (3Hz) のCal.240 PS IRM C LU。22K金製の偏心配置ミニローターによって極薄寸法が実現されている。1977年のCal.240を土台に複合複雑機構モジュールを組み付けたこの構成が、ノーティラスのスポーティな外装と、Patek Philippe伝統の薄型自動巻設計とを橋渡しする。サファイアクリスタル製のケースバックから、その仕上げを観察できる。
系譜と歴史
2006年、Baselworldにて発表。シリーズ30周年を記念する刷新の中心として、時分のみの5711/1A、フライバック・クロノグラフの5980/1Aとともに披露された。同時に金無垢のローズゴールド版5712R-001(革ストラップ・グレー文字盤)、ホワイトゴールド版5712G-001(革ストラップ・グレー文字盤)も登場し、5712ラインは3バリエーション体制で立ち上がっている。
2007年、チャリティオークションOnly Watch向けのピース・ユニークとして、チタン製の5712T-001が制作された。
2008年頃、パワーリザーブ目盛の仕様が静かに変更された。発表当初は「48」の脇に赤い点が1つだけだったが、終端側にもう1つの点が加わる形に改められた。同時期に文字盤や針の細部にも微改訂が入ったと伝わる。
2009年、Patek Philippeは独自基準「Patek Philippe Seal」を導入し、それまでの「ジュネーブ・シール」に代えて自社製ムーブメントの認定基準とした。以降生産のCal.240 PS IRM C LUは、この新基準による刻印を受けている。
2010年から2012年頃にかけて、ローズゴールド・ケースとホワイトゴールド・ベゼルを組み合わせたバイカラー仕様の5712GR-001がラインに加わった。
2022年、18Kローズゴールドのケースおよびブレスレットを備えた5712/1R-001がカタログ入り。ブラウンのサンバースト文字盤を備え、5712/1A-001のスチール・ブレスレット仕様に対応する貴金属版として位置付けられた。
2024年、5712G-001と5712R-001(いずれも革ストラップ)がカタログから外された。
2025年2月、5712/1A-001がPatek Philippe公式サイトから静かに削除された。2月1日前後に複数の専門メディアがこれを伝え、ブランドからの公的アナウンスを伴わない形での生産終了となった。2026年時点で現行ラインに残る5712は、ローズゴールド・ブレスレットの5712/1R-001のみである。