物語
01黒い森の部品工房から(1861〜1900)
1861年4月14日、シュランベルク。エアハルト・ユンハンスは義兄ヤコブ・ツェラー=トブラーとともに、黒い森の谷間に小さな工房を構えた。創業時の名は「ツェラー&ユンハンス」。当初の仕事は周辺の置き時計職人に向けた部品供給であり、木製のケース、真鍮の文字板、針、振り子皿などを量産することだった。
1866年には、ユンハンスの名を冠した最初の時計が世に出る。創業者エアハルトは独立した工業ブランドへの転換を志したが、その道半ばで1870年に没した。事業は妻と息子たちに引き継がれ、息子のアーサー・ユンハンスが米国に渡って当時最先端の量産技術を学ぶ。帰国後の1870年代半ば、彼はアメリカ式の互換部品方式と機械化された組立てラインをシュランベルクに移植した。1890年には、現在も用いられる八芒星が商標として登録され、ブランドの視覚的核となる。
02世界最大の時計工場へ(1900〜1930)
20世紀初頭、ユンハンスは爆発的に成長した。1903年には世界最大の時計工場となり、最盛期には従業員約3,000人、年産300万個に達したと伝わる。1918年にはアーサーの構想を継いだ工場建築「テラッセンバウ」が完成する。シュランベルクの急斜面に階段状に積み上げられたこの建物は、自然採光を最大限活用するための工夫であり、現在も産業建築の遺産として知られる。
1927年、同社は初の手巻き腕時計を製造する。懐中時計から腕時計への移行期に、ユンハンスもまた時代の要請に応えた。
03マイスターと自社キャリバーの時代(1930〜1960)
1936年、ユンハンスは自社開発のキャリバーJ80を搭載した「マイスター」シリーズを世に出す。「マイスター」の名は、社内で生産される最上の機構にのみ与えられた称号であり、コート・ド・ジュネーブ装飾を施したJ80/2はその象徴であった。
戦争を挟んだ1940年代後半、社内キャリバーJ88による手巻きクロノグラフが計画され、1949年から量産が始まる。1955年には新生連邦軍向けのパイロットクロノグラフ(BW-111)を製造。1956年、ユンハンスはロレックス、オメガに次ぐ世界第3位のクロノメーター生産者となったと記録される。同じ年、同社はスイスの造形作家マックス・ビルに厨房時計のデザインを依頼する。これがブランドの未来を変える出会いとなった。1961年、最初のマックス・ビル腕時計が発表される。
04クォーツ危機と再発明(1970〜1990)
1971年、ユンハンスは西ドイツ初のクォーツ式腕時計を発表する。翌1972年のミュンヘン夏季オリンピックでは、ロンジンとともに公式計時を担い、誤発走を電子的に検出する仕組みや1/100秒精度のカラー写真判定など、複数の計時革新を競技場に持ち込んだ。
しかしクォーツ革命は欧州の時計産業を大きく揺らし、ユンハンスも1976年に機械式の生産を一時停止する。同社の選んだ突破口は、量産機械式への回帰ではなく、より精密な電子計時の追求であった。1985年に世界初の電波修正卓上時計を投入し、1990年、フロッグデザインによる近未来的なケースを纏ったMega 1で、世界初の電波修正腕時計を実現する。フランクフルト発信のDCF77信号をストラップ内蔵アンテナで受信するこの時計は、「絶対に狂わない時計」という旧来の理想に、最も実用的な解答を与えた。1993年にはMega Solarが続き、太陽電池と電波修正の併用という同社独自の路線が定まる。
05危機と再生(2000〜現在)
新世紀に入ると経営は揺らぎ、2000年に親会社が変わり、2008年には親会社エガナ・ゴールドファイルの破綻によりユンハンスもまた経営難に陥る。翌2009年、シュランベルクの実業家ハンス=ヨッヘム・シュタイム博士と息子のハンネス・シュタイムが事業を引き継ぎ、シュタイム家の独立経営のもとで再出発した。シュタイム家自身が時計部品供給の老舗ケルン=リーバースを営む地元の工業一族である点は、再建が地域産業の文脈と無縁でなかったことを示している。
2008年に発表されたエアハルト・ユンハンス1には、自社設計の手巻きキャリバーJ325が搭載された。2011年の創業150周年にはマイスターが再生され、電波修正Megaシリーズ、バウハウス基調のマックス・ビル、現代的なフォルム、スポーツ計時の系譜を継ぐ1972――同社は複数の路線を並行して走らせている。2022年にハンネス・シュタイムが経営に参画し、2023年9月から単独業務執行社員として指揮を執る。創業の地シュランベルクから動かず、自らの規模で歩み続けている。