物語
01壁が崩れたあとの町で
ベルリンの壁が崩れたのは1989年11月9日のことであった。ザクセン州の山あいに位置する小さな町グラスヒュッテは、それまで東ドイツに属し、国営の時計工場グラスヒュッター・ウーレンベトリーベ(GUB)のもとで量産時計を製造していた。19世紀半ばにフェルディナント・アドルフ・ランゲがこの地に工房を構えて以来、ドイツ精密時計の中心地として知られてきた町であるが、戦後の国営化を経て、高級機械式時計を生む土壌は家庭内に細々と伝承されるのみとなっていた。
壁崩壊からわずか二か月後の1990年1月、デュッセルドルフでITコンサルティングと写真業を営むローラント・シュヴァートナーが、この町にノモス・グラスヒュッテの商号を登記した。シュヴァートナーは時計職人の経歴を持たない。しかし、グラスヒュッテに残る技術の系譜と、新生ドイツの統合過程で生まれる空白に、明確な好機を見いだしていた。Nomos——古代ギリシャ語で「法」「秩序」を意味する語が、社名として選ばれた。
021992年——四つの原型
最初のコレクションが市場に出たのは1992年である。タンジェント、オリオン、ルートヴィヒ、テトラ。すべてグラフィックデザイナーのスザンネ・ギュンターが手がけ、1930年代の腕時計とドイツ工作連盟の機能主義から着想を得ていた。なかでもタンジェントの円筒形ケース、細身のアラビア数字、6時位置のスモールセコンドは、後にノモスの代名詞となる構図を完成させていた。ムーブメントはETAの薄型手巻きキャリバーPeseux 7001を改修したもので、当時の業界規制との関係から、スイス製ムーブメントを搭載したグラスヒュッテ製品という、競合からの強い批判を受ける位置にあった。
販売は当初決して順調ではなかったと伝わる。雑誌『シュピーゲル』に出稿された機知に富んだ広告が話題を呼び、徐々に支持を広げていった。
032005年——マニュファクチュールへの転位
創業から15年を経た2005年、ノモスは初の完全自社製キャリバーAlpha(手巻き)を発表する。同年には自動巻きキャリバーEpsilonを搭載した新作Tangomatも登場した。これによってグラスヒュッテ呼称の50%条項を実質的に大幅超過し、設計から組立まで一貫して域内で行うマニュファクチュールへ移行した。Alphaは現在も同社で最も搭載例の多いキャリバーとして稼働を続けており、創業期の四原型を支える中核機構の位置を保っている。
042014年——脱進機の独立
時計業界において、脱進機(テンプ、ヒゲゼンマイ、アンクル、ガンギ車からなる中核機構)を自社設計・生産できるブランドは世界的にも少数に限られる。7年間と1,100万ユーロの開発期間と費用、そしてドレスデン工科大学とフラウンホーファー研究機構との共同研究を経て、2014年、ノモスは独自脱進機Swing Systemを完成させた。スイス系サプライヤーへの依存からの脱却を意味するこの達成について、ブランド側はオーナー経営の独立企業にとって「月面着陸に等しい出来事」と表現している。翌2015年、これを搭載した薄型自動巻きキャリバーDUW 3001が発表される。厚さわずか3.2mmという数値は、量産薄型キャリバーの基準を大きく書き換えるものであった。
05ベルリンとグラスヒュッテのあいだで
技術と製造はグラスヒュッテで、デザインはベルリンのクロイツベルクにある社内デザインスタジオ「ベルリーナーブラウ」で——この二極構造が、ノモスの現代的な性格を形成している。ベルリン拠点の工業デザイナー、マーク・ブラウンの設計によるメトロは、都市性を時計に翻訳した代表例として広く知られる。
0635年目の節目で
2024年10月、シュヴァートナー、ウヴェ・アーレント、ユーディト・ボロウスキーの経営陣は、東西統一後のドイツ経済の成功事例として、シュタインマイヤー大統領から連邦功労勲章を受章した。2025年末、ボロウスキーが経営から退き、ノモスは創業35周年を迎えるにあたって新たな体制への移行が進んでいる。年間生産はおよそ二万本、従業員は約三百名。スイスの大手と比べれば慎ましい規模ながら、ドイツ国内では最大の機械式時計メーカーとして、その位置はすでに確かなものになっている。