系譜と歴史
1. マックス・ビルの設計思想とクォーツの居場所
マックス・ビル(1908–1994)は、スイスに生まれ、バウハウス・デッサウでアルバース、カンディンスキー、クレーらに学んだ造形家である。建築、彫刻、グラフィック、工業デザインを横断し、後にウルム造形大学(HfG Ulm)の初代学長を務めた。彼が掲げた「良き形(die gute Form)」は、装飾を排し、機能から導かれる明快さを善とする思想であった。
ユンハンスとの関係は、1956年の厨房時計(Küchenuhr)に始まる。文字盤の数字書体までも設計したこの時計は、現在ニューヨーク近代美術館(MoMA)に収蔵される。腕時計への展開は1961年とされ、以後60年あまり基本造形はほとんど変わっていない(初出年は資料により1961年/1962年で揺れる)。
マックス・ビルのコレクションには、手巻、自動巻、そしてクォーツの選択肢が併存する。クォーツ版は、薄さと安定した精度、そして手の届きやすさをもたらす。機械式が「作り手の手仕事」を語るのに対し、クォーツ版は「日常の道具」としての側面を担う。J643.29は、この実用の系譜に置かれたムーブメントである。
2. ETA 955.412 — 業界が共有する基盤
J643.29の中核は、スイス・ETA社が供給するクォーツキャリバー955.412である。これはETAの「ノルムフラットライン(Normflatline)」と呼ばれる薄型クォーツ群に属するとされ、外径は23.3mm、厚さは2.50mm前後とされる。3時位置の日付表示と、電池消耗を知らせるE.O.L.機構を標準で備える。
955.412は長く供給され、多くのブランドが採用してきた汎用基盤とされる。日付・曜日の有無や厚みの違いで955.1xx/955.4xx系に枝分かれし、後年は後継群へと引き継がれたとされる。共通基盤の存在は、中小ブランドが信頼性の高い駆動部を確保するための、業界の合理的な仕組みである。
ユンハンスは、この基盤に自社の呼称を与え、調速・ケーシングを経てマックス・ビルの設計言語へと統合する。J643.29という型番は、その「採用と仕上げ」の所在を示す名であり、ムーブメントの素性はETAの設計に拠る。
3. ユンハンスとクォーツの長い縁
意外に思われるかもしれないが、ユンハンスはクォーツとともに歩んできたブランドである。シュランベルク(黒い森)に拠点を置く同社は、1967年からクォーツ腕時計の開発に着手した。1970年前後にはドイツ初とされるクォーツ腕時計「アストロ・クォーツ」を世に問い(年代は資料により1970〜1972年で揺れる)、1972年のミュンヘン五輪では計時に関わったとされる。
その探求は電波時計へと向かう。1990年には世界初とされる電波腕時計「メガ1(Mega 1)」を発表し、のちに電波とソーラーを組み合わせた機種へと展開した。
高度な自社クォーツの系譜を持つブランドが、入門的なマックス・ビルにはあえて堅実な汎用クォーツを選ぶ。J643.29は派手な機構を持たない。しかし、装飾を削ぎ落とすというマックス・ビルの思想に、過不足のない駆動部という選択はむしろ自然に響く。