エアハルト・ユンハンス
麦わら帽子工場の経営から時計づくりへ転じ、黒い森シュランベルクにユンハンスを興した19世紀ドイツの実業家
- BORN
- 1823年
- DIED
- 1870年
- BRAND
- ユンハンス — 1861年創業
- MODELS
- 5 本
概要
エアハルト・ユンハンス(Erhard Junghans、1823-1870)は、ユンハンスの創業者である。ドイツ南西部、黒い森の町シュランベルクで麦わら帽子工場の経営に携わった。1861年、義兄ヤコブ・ツェラー=トブラーとともに時計部品の製造を始める。自身は時計職人ではなく、米国式の機械生産を黒い森の時計づくりに取り入れた実業家であった。創業から9年後の1870年に47歳で没し、事業は妻と息子たちに引き継がれた。同社が20世紀初頭に世界最大の時計工場へ育つ土台は、この9年間に据えられている。
生涯
01麦わら帽子工場での修業
エアハルト・ユンハンスは1823年1月1日、黒い森に生まれた。出生地はバーデンの町ツェル・アム・ハルマースバッハとされる。父ニコラウスは編み物職人から銅版印刷の仕事に移った人物である。1841年、一家は同じ黒い森の町シュランベルクへ移り、父は町の陶器工場で印刷工として働いた。
若いユンハンスが職を得たのは、町の麦わら帽子工場であった。工場を率いる商人トブラーのもとで、彼は商業と技術の基礎を学んだ。修業ののちはスイスとフランスに滞在し、帽子を売り歩きながら語学と人脈を身につけている。
1845年、ユンハンスはトブラーの娘ルイーゼと結婚した。1850年代半ばには工場の共同経営者兼支配人となり、流行に左右されやすい帽子事業を切り盛りする。時計とは縁のない場所で、彼は工場の運営と販売の実務を学んでいった。
02油車から時計部品へ
1859年、ユンハンスは義兄ヤコブ・ツェラー=トブラーと共同で、水力を使える土地を手に入れた。二人はここに油車を建てたが、この事業は早々に行き詰まったと伝わる。
方向を変える助言を与えたのは、王立商工中央局を率い、工業化を推し進めたフェルディナント・フォン・シュタインバイスであった。ユンハンスは1849年頃から、彼に促されて時計部品の工業生産を考えていたとされる。計画には、1847年に米国へ移住していた兄クサーヴァーが加わった。木工を専門とする兄は部品製造に向く機械の調達を任され、1862年に自らも戻って経営に加わったとされる。
1861年、シュランベルクのガイスハルデの敷地で時計部品の製造が始まる。最初に手がけたのは黒い森の掛け時計向けの部品で、ほどなく時計全体の製造へと手を広げた。ツェラー=トブラーはやがて事業を離れ、会社はユンハンス兄弟の手に移ったと伝わる。
0347歳の死と事業の継承
1870年秋、ユンハンスは47歳で世を去った。創業からわずか9年で、工業化の成果が見えはじめた矢先の死であった。遺言では、会社を息子たちに渡すよう定めていたと伝わる。それまでの間、経営を担ったのは妻ルイーゼである。
息子のアーサー(1852年生)は、父の死を普仏戦争の従軍中に知ったという。その後は米国の工場で量産の実際を学び、1873年に帰郷したと伝わる。1876年、兄のエアハルト(1849年生)とアーサーが経営を引き継いだ。創業者が始めた米国式の工業化は、こうして次の世代に受け継がれた。
業績・代表作
01職人の谷に機械を入れる
ユンハンスが向き合ったのは、黒い森の時計産業が抱えた構造上の問題であった。この地域では古くから、木製の掛け時計が家内工業で作られてきた。部品は鋳造や手仕事で一つずつ仕上げられ、作れる量にも価格にも限りがあった。同社の資料によれば、そこへ安価な米国製の時計が流れ込み、小さな工房の多くが苦境に立たされた。
ユンハンスの答えは、米国の製法を取り込みつつ、黒い森の工作の質を保つことであった。『新ドイツ人名事典』(NDB)によれば、地板や歯車は鋳造をやめてプレス機で打ち抜かれた。これにより製造原価を下げ、同時に寸法の精度も高めたという。同書はこの結合を、欧州で工業的な時計製造が始まる契機と位置づける。同社だけでなく、ドイツの時計産業全体が伸びる土台になったとも記す。
02「米国式」を掲げた工場
この方針は社名にも表れている。NDBによれば、兄弟が率いた会社は米国式による掛け時計・置き時計の工場を名乗った。ここでいう米国式とは、互換性のある部品を専用機械で作り、分業で組み上げる方式である。米国でアメリカン・システムと呼ばれたこの手法を、ユンハンスは兄の手を借り、機械ごと黒い森に持ち込んだのである。
1864年には、3種類の見本時計がシュタインバイスのもとに送られた。てんぷ式、短い振り子式、打方装置付きの長い振り子式で、いずれもぜんまいで動く。どれも米国製の機械で分業生産できるよう設計されていた。黒い森の職人の丁寧な仕事により、出来は評判の芳しくない米国製品を上回ったとNDBは記す。1870年の時点では、工場は3棟、およそ100人の労働者が年に約2万個を作っていたという。
03工場経営者という出発点
ユンハンスは時計職人ではなく、時計づくりの経験も持たなかった。彼が持ち込んだのは、帽子工場で培った工場運営と販売の経験、そして行政との関係である。技術の導入を兄クサーヴァーに託し、自らは事業の組み立てに当たった。時計を個人の技からではなく、工場の仕組みから考えた点に、彼の仕事の性格がある。
同じ時代のドイツには、別の出発点もあった。1845年、ザクセンのグラスヒュッテではフェルディナント・アドルフ・ランゲが工房を開いている。ランゲはドレスデンで時計師グトケスに学んだ職人で、精密な懐中時計の産業を地域に根づかせようとした。一方のユンハンスは、日用の時計を機械で量産する道を選んだ。どちらが優れているかではなく、職人から始めるか工場から始めるかの違いが、二つの系譜を分けている。
評価・後世への影響
ユンハンスが据えた方針は、息子たちの代に大きく実を結んだ。1900年には年産が300万個を超え、1903年には世界最大の時計工場に数えられるまでになる。創業者は職人の技と機械生産を組み合わせて安価な輸入品に対抗した。その姿勢を同社は今も自らの原点として語っている。
創業の地ガイスハルデの敷地は、現在も同社の本拠である。階段状の工場棟テラッセンバウは、建築家フィリップ・ヤコブ・マンツの設計で1918年に完成した。竣工100年の2018年には、博物館として公開されている。黒い森の時計産業の歩みを伝える場として、創業者が工場を置いた土地に建っている。
創業者の名は製品にも受け継がれた。2000年代後半には、その名を冠したコレクションが展開されている。その一つ「エアハルト・ユンハンス1」は、自社製の手巻きキャリバーJ325を積む。続く「エアハルト・ユンハンス2」には、同じく自社製のJ330が載ったとされる。
生誕200年にあたる2023年には、「マイスター・ファイン・オートマティック・エディション・エアハルト」が発表された。18金のイエローゴールドとホワイトゴールドで各200本の限定である。ムーブメントはJ800.1で、ローター軸受のカバーに肖像、裏蓋のサファイアガラスに署名を配した。
この人物が関わったモデル
出典
本文の執筆にあたって参照した資料。閲覧日は内容を確認した日を示す。
- 01 公式 Erhard Junghans 2
- 02 公式 Junghans Katalog 2010
- 03 公式 Junghans Katalog 2012
- 04 公式 Junghans Katalog 2023/2024
- 05 専門メディア Junghans, Erhard (Neue Deutsche Biographie 10, 1974)
- 06 専門メディア The Junghans Meister Fein Automatic Erhard Edition — A Tribute To The Brand's Founder
- 07 専門メディア Introducing - Junghans Meister Fein Automatic Gold Edition Erhard
- 08 専門メディア 175 Years Of Watchmaking In Glashütte: A History Of Fine German Watchmaking - Reprise
- 09 専門メディア Never Stand Still - A Visit to The A. Lange & Söhne Manufacture
- 10 専門メディア Wempe und Junghans lancieren mit der Meister Chronoscope Signature Collection eine Sonderedition
- 11 専門メディア How Junghans went from making straw hats to becoming a global power
- 12 専門メディア The Junghans Meister fein Automatic Edition Erhard
- 13 専門メディア Junghans: Meister fein Automatic Edition Erhard