アントニ・パテック
1830年の蜂起の後にジュネーヴへ渡り、チャペック、そしてフィリップと組んで時計の会社を興したポーランド出身の実業家(1812-1877)
- BORN
- 1812年
- DIED
- 1877年
- BRAND
- パテック フィリップ — 1839年創業
- MODELS
- 19 本
概要
アントニ・ノルベルト・パテック(Antoni Norbert Patek、1812-1877)は、パテック フィリップの共同創業者である。スイス歴史辞典によれば、ルブリン近郊のピャスキに生まれ、1830年の蜂起の後にフランスへ亡命した。1839年、同じく亡命していたフランチシェク・チャペックとジュネーヴで最初の会社を興し、1845年にその協力が終わると、リューズで巻き上げる機構を発明したフランス人ジャン=アドリアン・フィリップらと新しい会社を設けた。パテックは主に商業の面を担った。会社は1851年にパテック・フィリップ&Cieと改められた。
生涯
01亡命
スイス歴史辞典(DHS)によれば、パテックは1812年6月12日、ルブリン近郊のピャスキで、小地主ヨアヒムとアンナ・ピアセツカ・デ・スコチラスの子として生まれた。カトリックで、1843年にヴェルソワの市民権を得ている。1830年の蜂起の後、フランスへ亡命し、植字工として働きながら、画家アレクサンドル・カラムのもとで絵の手ほどきを受けた。1839年には、フランス人の商人ルイ・シャルルの娘マリー・デニザールと結婚した。生年月日は資料によって異なり、6月14日とするものもある。
02ポーランドの人々とともに
DHSによれば、パテックはポーランド人の社会のなかでも活動を続け、ジュネーヴのポーランド人の組織の共同設立者となった。1848年の諸国民の春に関わり、1863年の蜂起の後の亡命者も助けた。DHSは、パテックが1877年3月1日にジュネーヴで亡くなったと記している。
業績・代表作
01チャペックとの会社
DHSによれば、パテックは1839年、チェコ系のポーランド人で同じく亡命者のフランチシェク・チャペックとともに、ジュネーヴで最初の会社を興した。Deployantは、パテック フィリップがこの1839年5月1日の創業以来、途切れることなく続き、常に個人の所有のもとにあったと書いている。
02フィリップとの会社
DHSによれば、チャペックとの協力は1845年に終わり、パテックは、リューズで巻き上げる機構を発明したフランス人ジャン=アドリアン・フィリップと、ポーランド人の亡命者で法律家のヴィンツェンティ・ゴストコフスキとともに新しい会社を設けた。これがパテック フィリップとなる。パテックは何よりも商業の面を受け持った。
Deployantによれば、パテックは1844年のパリの産業博覧会で、才能あるフランス人の時計師フィリップと出会った。翌年、チャペックとの共同経営を解消し、フィリップと第3の共同経営者ゴストコフスキとともに、パテック&Cieを設立した。1851年、会社の名はパテック・フィリップ&Cieに改められた。
評価・後世への影響
パテックが興した会社は、彼の死後も続いた。Deployantによれば、1877年にパテックが亡くなると、息子のレオンは終身の年金と引き換えに会社を退いた。1891年には、共同創業者のフィリップが末の息子ジョゼフ・エミールに地位を譲っている。
亡命者として商いの面からジュネーヴの時計づくりに加わったパテックと、技術を担ったフィリップとの組み合わせが、会社の土台となった。Deployantは、パテック フィリップを、創業以来途切れることなく活動し、高級時計の世界で最も名高い名の一つと位置づけている。
この人物が関わったモデル
出典
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