アントニ・パテック
パテック・フィリップの共同創業者。ポーランド蜂起の士官からジュネーブの時計商へ(1812-1877)
アントニ・パテック(Antoni Patek、1812-1877)は、現在のポーランドに生まれ、後にジュネーブで時計商パテック・フィリップを創業した実業家である。1830年の十一月蜂起にロシア帝国軍に抗して士官として戦い、敗北後はフランスを経てスイスへと亡命した。文字盤装飾の小商いから出発し、1839年に同じく蜂起の戦友フランチシェク・チャペックと工房を設立。1845年にフランス人時計師アドリアン・フィリップを迎え、1851年にパテック・フィリップ商会と改組した。装飾意匠と国際販路の開拓で、創業から四半世紀のうちに同社を欧州王侯貴族御用達のブランドへと押し上げた人物として知られる。
生涯
1. ポーランドからの亡命
アントニ・ノルベルト・パテック(Antoni Norbert Patek)は1812年6月14日、当時ワルシャワ公国に属したピャスキ・シュラヘツキェ村に生まれた。プラヴジツ紋章を持つ小貴族の家柄で、10歳のときに一家でワルシャワへ移住している。父ヨアヒムは1828年に没した。
16歳でポーランド第一騎兵連隊に入隊したパテックは、1830年から翌年にかけての十一月蜂起にロシア帝国軍に抗して身を投じ、二度の負傷を経た。1831年2月に少尉に昇進し、同年10月にはポーランド軍人最高位の武勲章ヴィルトゥティ・ミリタリ金章を授与されている。蜂起は同年秋に鎮圧され、多くの士官と同じくパテックも亡命を余儀なくされた。亡命路の整備の一端をポーランドの国民的将軍ユゼフ・ベムから託されたとも伝わる。
2. ジュネーブで時計と出会う
亡命先のフランスでは植字工などとして糊口をしのいだが、ロシアの圧力を受けたフランス政府がポーランド亡命者の追放に転じたため、1830年代半ばにスイス・ジュネーブに渡る。同地ではワイン商を営むかたわら、スイスの風景画家アレクサンドル・カラムに師事して絵画を学んだとされる。1832年頃から仏語名「アントワーヌ・ノルベール・ド・パテック(Antoine Norbert de Patek)」を名乗り始めた。
ジュネーブは既に時計産業の中心地であったが、時計師としての修業を経ていないパテックは、まず時計のケース装飾と販売から事業に入った。初期の顧客は同じく亡命中のポーランド人が多く、彼らに祖国ゆかりの意匠を施した懐中時計を届けたと伝わる。
3. 創業と二度の改組
1839年5月1日、十一月蜂起の戦友であったボヘミア出身のフランチシェク・チャペック(Franciszek Czapek)と共同で「パテック、チャペック商会」を設立。年産およそ200本の懐中時計を主に注文生産で送り出した。1844年のパリ産業博覧会で、キーレス巻き上げ機構を発明したフランス人時計師ジャン・アドリアン・フィリップ(Jean Adrien Philippe)と出会い、これが転機となる。1845年にチャペックとの提携を解消、同年5月にフィリップを首席時計師として迎え入れ、1851年1月に商号を「パテック、フィリップ商会」へ改めた。
4. 晩年と継承
晩年のパテックはカトリック教会への寄進や慈善活動を続け、その功績によりローマ教皇ピウス9世から伯爵位を授けられている。同教皇は同時に同社の顧客でもあった。
1875年、慢性的な貧血の悪化を受け、パテックは三名の従業員シングリア、ルージュ、ケーンに資本を出資させ、共同所有者として後継体制を整えた。1877年3月1日にジュネーブで没し、シャトレーヌ墓地に葬られている。一人息子レオンは家業を継がず、年金の支給を受けてフランス・トノン・レ・バンで生涯を市民として過ごした。
業績・代表作
1. 二人の創業者の役割分担
パテックの業績を理解するうえで重要なのは、彼が時計師ではなく実業家・装飾家であったという点である。1845年以降の同社では、機構の設計と特許取得をジャン・アドリアン・フィリップが担い、装飾意匠・販路開拓・経営をパテックが担うという明確な分業が成り立っていた。フィリップが1844年に特許を取得したキーレス巻き上げ機構は、パテックがパリ博覧会で発掘し、書簡でジュネーブに招聘した結果として同社の核となった技術である。
パテック自身の時計師としての訓練は限定的であったが、宝飾意匠や絵画の素養を時計の表面に持ち込み、エナメル彩色、装飾彫金、宝石散嵌めといった装飾技法を同社製品の標準として組み込んだ。後年の社史で同社が掲げる「美しさと精度の両立」という哲学の前者を、創業期に体現したのがパテックの仕事だったと言える。
2. 王侯貴族への販路開拓
1851年のロンドン万国博覧会は、若いブランドにとって決定的な舞台となった。同年、英国のヴィクトリア女王が同社のキーレス巻き上げ式ペンダント・ウォッチを購入し、付属のブローチと併せて自ら着用したと伝わる。アルバート公も同社の懐中時計を入手しており、英王室との関係の構築は欧州各国の貴族顧客の獲得を一気に加速させた。
パテックは同年に大西洋を渡って米国を訪れ、ニューヨークでチャールズ・ルイス・ティファニーと面会し、両社の長期的な販売提携を取り付けた。ティファニーとの共同銘文字盤の伝統は今日まで続いており、これも創業者の戦略眼に発する遺産である。顧客名簿にはのちにローマ教皇ピウス9世、レフ・トルストイ、ハンガリーのコスコヴィッツ伯爵夫人(1868年の世界初のスイス製腕時計の発注者)らが名を連ねた。
3. 装飾と複雑機構を両立する設計思想
パテックは、装飾の華美と機構の精緻が相反するものではなく、両立すべき価値であるという思想を社風として残した。フィリップが推進したミニッツリピーター、永久カレンダー、スプリットセコンド針といった複雑機構と、パテックが推進したエナメル彩色や宝石細工は、同じ一本の懐中時計のなかで矛盾なく同居するべきものだった。
敬虔なカトリック信徒であったパテックは、聖職者からの注文では宗教モチーフを文字盤や裏蓋の意匠に取り込み、ローマ教皇庁を含む宗教顧客の獲得にも自らの信仰を生かした。装飾は単なる商業的な飾り立てではなく、注文主の個別性に応える編集行為として位置づけられていた。20世紀後半に同社がカラトラバやノーチラスといった現代的な意匠を展開するに至っても、この「機構と装飾の両立」という創業期の設計思想は、同社の基本姿勢として継承されている。
評価・後世への影響
パテックの死後、息子レオンは家業を継がなかったため、パテック家の血統は同社から離れた。経営は晩年に共同所有者となった三名の従業員に引き継がれ、後にフィリップの息子ジョゼフ・エミールが事業の中核を担った。1901年に株式会社化され、1932年の世界恐慌期にはジュネーブでエナメル工房を営むシュテルン兄弟(ジャンとシャルル・アンリ)が資本を引き受け、以後現在に至るまでシュテルン家の所有下にある。
ブランド名に冠されたとはいえ、創業者パテックの個人としての足跡は、相棒であった時計師フィリップの華々しい特許群の陰でやや見過ごされがちであった。しかし近年は、出自であるポーランドの文脈から彼を再評価する動きが続いている。ポーランドの歴史機関による特集記事、生地ピャスキ・シュラヘツキェ周辺の顕彰事業、そしてジュネーブのパテック・フィリップ博物館における初期作品の展示は、いずれも亡命者として一企業を築き上げた一個人の足跡を辿る試みとなっている。
オークション市場でも同社の19世紀懐中時計は高い注目を集めており、なかでもエナメル彩色や宝石装飾を施した初期作は、創業者本人の美意識を直接伝える資料として収集家から重視されている。