03 — EDITORIAL
系譜と歴史
Genealogy & history
1. 開発の背景
Cal. 8912の源流は、英国の時計師ジョージ・ダニエルズが1970年代に考案したコーアクシャル脱進機にある。オメガは1999年、汎用ムーブメントを基にしたCal. 2500でこの機構を量産化した。2007年には初の自社設計となるCal. 8500を発表し、コーアクシャルを自社製ムーブメントの基盤に据えた。
次の転機は耐磁性への取り組みである。オメガは2013年、15,000ガウスを超える磁場に耐えるCal. 8508を発表した。2014年12月にはスイス連邦計量研究所(METAS)との協業を公表し、完成品単位で性能を検査する新認定の構想を示した。2015年、この「マスター クロノメーター」認定を初めて得たのがCal. 8900系である。Cal. 8912は、その8900系からデイト表示を省いたノンデイト版と位置づけられる。
2. プロプロフでの初搭載
Cal. 8912が初めて姿を見せたのは、2016年に刷新されたシーマスター プロプロフ1200Mである。1970年に生まれた飽和潜水向けダイバーズに、グレード5チタン製ケースとマスター クロノメーター認定が与えられた。潜水時計にとって日付窓は必須の機能ではない。ノンデイト構成は文字盤の対称性を保ち、ツールウォッチの設計意図とも整合する選択であった。
3. 深海とヘリテージへの展開
2019年、Cal. 8912は極限環境での実証に臨む。探検家ヴィクター・ヴェスコーヴォの「ファイブ・ディープス」遠征で、試作機ウルトラディープがマリアナ海溝の最深部に到達した。到達深度はのちに10,935mへ改訂されている。3本の試作機は無傷で浮上し、潜航後にMETASの認定試験を通過したと伝わる。
2021年には、1957年誕生のシーマスター300が本キャリバーを得て刷新された。2022年には6,000m防水の量産版ウルトラディープが全7モデルで登場し、いずれもCal. 8912を搭載する。2025年11月発表の第4世代プラネットオーシャンも、デイト付きのCal. 8900からCal. 8912へ移行した。
4. 業界での位置
2015年前後、高級時計業界では完成品の精度を保証する基準が相次いで示された。ロレックスは同年、ケーシング後の日差を定めた「高精度クロノメーター」の定義を改めている。オメガは第三者機関METASによる検査という形を選び、社外の計量機関に判定を委ねた点に特徴がある。
Cal. 8912自体は新規設計ではなく、2015年からの実績を持つ8900系の派生である。むしろその成熟が、深海用の実用機からヴィンテージ意匠のモデルまで、オメガのノンデイト潜水時計群を横断して支える基盤となっている。
05 — MECHANISM
技術解説
Technical breakdown
コーアクシャル脱進機
脱進機は、テンプの往復運動に合わせて動力を一定間隔で解放する機構である。Cal. 8912はオメガ独自の「コーアクシャル脱進機(Co-Axial Escapement)」を採用する。同軸上に2段の歯を持つガンギ車と、3つの爪石を備えたアンクルで構成される。一般的なスイスレバー式では、爪石とガンギ車の歯が滑りながら力を伝える。コーアクシャルは力の伝達を主に押し当てる接触で行い、滑り摩擦を抑える。これにより潤滑油の劣化に伴う精度低下が起こりにくいとされる。
テンプとヒゲゼンマイ
テンプはフリースプラング方式で、緩急針を持たない。調速はテンワ外周の調整ネジで慣性モーメントを変えて行う。ヒゲゼンマイ(テンプを往復させる渦巻きばね)には、シリコン製の「Si14」を用いる。シリコンは非磁性で、温度変化による弾性の変動も小さい。テンプ受けは両側で支持するブリッジ構造で、衝撃に対する安定性を高めている。耐震装置にはニヴァショックを備える。
振動数と香箱
振動数は25,200vph (3.5Hz)で、テンプは1秒間に7回振動する。広く用いられる28,800vph (4Hz)よりやや低い設定で、Cal. 8500以来のオメガ製コーアクシャル系に共通する。
香箱(主ゼンマイを収める円筒)は2つを直列に連結する。巻き上げ量によるトルク変動を抑えつつ、60時間のパワーリザーブを確保する構成である。自動巻機構はローターの両方向回転で巻き上げる。直径は29mm、石数は38石である。
時差修正機能
リューズを2段目に引くと、時針のみを1時間単位で単独操作できる。分針と秒針は動き続けるため、時差修正のたびに計時を中断する必要がない。オメガはこれを「タイムゾーン機能」と呼ぶ。GMT針を持つ機構とは異なり、第2時間帯の同時表示は行わない。
耐磁性とマスター クロノメーター認定
耐磁性は15,000ガウス(1.5テスラ)に達する。軟鉄製インナーケースで磁場を遮るのではなく、調速・脱進系の部品自体に非磁性素材を用いる設計である。
マスター クロノメーター認定は2段階で行われる。まずムーブメント単体が、ISO 3159に準拠したクロノメーター検定を受ける。基準は日差-4〜+6秒である。次に完成品の状態で、METASが定める8項目の試験に臨む。精度基準は日差0〜+5秒で、磁場暴露後の精度、パワーリザーブ、防水性も検査対象に含まれる。
仕上げと保守性
ブリッジとローターにはロジウムメッキが施され、アラベスク状の「ジュネーブウェーブ」装飾が広がる。コーアクシャル脱進機は潤滑への依存を減らす設計で、オメガは整備間隔の延長をその利点に挙げている。