物語
01創業期 ― 量産の街グレンヘンに生まれた工房
ジュラ山脈の南麓、スイス・ゾロトゥルン州のグレンヘンは19世紀末から時計産業の集積地として知られていた。ETA、エテルナ、フォルティスといった名が連なる町である。1926年、この地で Wüllimann Schneider Nivada SA の名での営業が始まる。創業者としてオットー・ヴュリマン、ヘルマン・シンドラー、ヤコブ・シュナイダーの名が挙げられ、起源を1879年の家族経営の工房にさかのぼらせる資料もある。
設立当初の主力は、ETA や A. Schild、Phénix の汎用ムーブメントを用いた量産時計である。1930年代に入ると、同社は自動巻き時計の量産競争に名を連ねる一社となった。ジョン・ハーウッドが自動巻きを特許化してから約十年、技術がようやく量産段階に降りてきた時期にあたる。Discus、Aquamatic、Sea Blade、Compensamatic といった当時のモデル名が、同社の関心領域を物語る。
02米国進出と二つの社名
1939年、ニヴァダはニューヨークのクロトン・ウォッチ・カンパニー(1878年設立)と販売契約を結び、米国市場への本格進出に踏み切る。ところが同年、グレンヘン近郊のモバードから商標異議が申し立てられた。発音上 Nivada が Movado に近く、消費者を混同させるという主張である。
争いは1939年と1953年の二度に及んだとされる。最終的に欧州市場では Nivada Grenchen を、米国市場では Croton、Croton Nivada、Croton Nivada Grenchen の表記を併用する運用に落ち着く。同じケース、同じダイヤルでありながら、文字盤の銘によって帰属が変わる。コレクター泣かせの呼称は、こうした和解の産物であった。
03探検と深海 ― 1950〜60年代の黄金期
1950年代、ニヴァダの時計は探検の現場と結びつく。1955年から56年にかけて行われた米海軍の Operation Deep Freeze I に同社の防水自動巻きが帯同したと伝わる。リチャード・E・バード少将の指揮するこの遠征は南極マクマード基地の建設を含むもので、続く1957〜58年の国際地球観測年(IGY)へと連なった。同社はこの実績を Antarctic の名のもとに広告へ展開し、ケースバックには IGY のメダリオンを刻んだとされる。
なお、Antarctic の名称が公的に登場する時期については議論があり、ブランドは1950年とするが米国著作権局上の表記初出は1957年であり、それ以前の同等品は Aquamatic 等の別名で販売されていたとする見方も存在する。
1960年代前半(1961年頃とも1963年ともされる)、同社は多機能クロノグラフの Chronomaster Aviator Sea Diver を発表する。手巻きのヴァルジュー製クロノグラフに、60分と12時間の目盛りを持つ両方向回転ベゼルと、ヨットレース用の5分カウントダウンを示す赤い目盛りを統合した38mm・200m防水の本機は、ダイバー、パイロット、ヨットマン、レーサーのいずれにも応じうる工具時計として企画された。1964年には深度計を初めて内蔵した Depthomatic、1965年には1,000m防水を謳う Depthmaster を投入する。後者は「おそらく世界で最も防水性の高い時計」と宣伝されたが、クッション型のケース自体は他社とも共有されたものであった。
04クォーツショックと長い沈黙
1970年代、クォーツ時計の急速な普及と1973年のオイルショックが、スイス時計産業全体に深い変動を引き起こす。ニヴァダは過去のヒット作と Datomaster などの新作でこの10年をしのぎ、1980年代初めにはクォーツにも手を広げたが、業績は回復しなかった。生産は1980年頃までに止まったとされる。
その後の数十年、Nivada の商標は複数の所有者の手を渡り歩いた。1980年代半ばには韓国の Kim Suk Keun Watch Company に売却され、2000年代初めにはメキシコの Industrial Omega が取得して、Nivada Swiss の名でクォーツ時計を中心に展開した。スイス本国における存在感は希薄になり、ブランドは「失われた名」の一つに数えられるようになる。
05復活 ― ヴィンテージとコミュニティの時代
転機は2018年に訪れる。フランス出身の起業家ギヨーム・レデと、時計製造を請け負う Montrichard Group を率いるレミ・シャブラが復活に乗り出し、メキシコの保有者から Nivada Grenchen の名と旧モデルの使用権を得た。2020年の再始動時の構成は Chronomaster、Antarctic、Depthmaster の三本柱で、いずれも1960年代の原型に対する忠実な解釈を志向した。
2023年には、1977年作の F77 を復刻する。八角形ベゼルと一体型ブレスレットを備えたステンレスのスポーツモデルは、仕様の一部をコミュニティの意見から決める手法で支持を集め、2024年のチタンや天然石の文字盤、2025年の MKII へと広がって現行ラインを牽引する存在となった。
2026年、ニヴァダ・グレンヘンは創業100周年を迎えた。失われた名のままにとどまる選択肢もあったブランドが、コレクターの記憶に支えられて再び自走する道を選んだ、稀有な事例である。