系譜と歴史
1. 開発の背景
Cal. 8938の源流は、2007年に登場したオメガの自社製自動巻Cal. 8500にある。コーアクシャル脱進機を前提に一から設計されたこの系統は、2015年にグローブマスターのCal. 8900で転機を迎えた。スイス連邦計量・認定局(METAS)と共同で定めたマスター クロノメーター認定の最初の搭載機となったのである。以後、89xx系は時刻表示のみの基本形を軸に、日付、GMT、年次カレンダーなどの派生を広げていく。
複数時間帯の表示について、オメガには先行する経験があった。アクアテラGMTなどに積まれたCal. 8605は、24時間針と単独調整式の時針を組み合わせた構成である。Cal. 8938はこの「時針だけを動かす」という発想を受け継ぎ、24時間の情報を針ではなくディスクで示す方向へ発展させた機械と位置づけられる。
2. プラチナの先行機とCal. 8939
ワールドタイマーとしての初出は、Cal. 8938ではなく兄弟機のCal. 8939である。2017年のバーゼルワールドで、アクアテラ誕生15周年を機にプラチナケースの限定87本が発表された。文字盤中央にはグラン・フー・エナメルの世界地図が置かれた。ローターとテンプ受けを金製とした仕様がCal. 8939の名で区別される。当時の専門メディアは、これをオメガ初のワールドタイマーと紹介している。スポーツウォッチを主軸とするブランドにとって、複雑な表示をもつ機種は異例の存在と受け止められた。
3. Cal. 8938の登場と展開
2019年、ワールドタイマーはレギュラーコレクションに組み込まれた。ステンレススチール仕様に搭載されたのがCal. 8938であり、同時発表の18Kセドナゴールド仕様はCal. 8939を継続した。文字盤中央の地図はグレード5チタン板をレーザーアブレーションで彫り込む手法に改められ、量産に適した構成となった。
2023年にはチタンケースやグリーンのセラミックベゼルを備えた仕様が加わった。同年のシーマスター75周年記念「サマーブルー」では、記念の刻印を施した裏蓋が採用されたとされる。2025年には、45.5mmのブラックセラミックケースをもつプラネットオーシャン ワールドタイマーが登場した。600m防水のダイバーズモデルへの搭載は、この機械が都市的なアクアテラに限らない汎用性をもつことを示している。
4. 業界での位置
ワールドタイマーの古典的な形式は、1930年代にジュネーブの時計師ルイ・コティエが確立したとされる。都市名リングと24時間リングを文字盤外周に配し、リューズやプッシャーで都市リングを回して基準地を切り替える方式で、現在も多くのブランドが採用している。
これに対しオメガは、都市名リングを固定し、中央の24時間ディスクを回転させる構成を選んだ。移動先では時針だけを1時間単位で動かせばよく、操作はGMTウォッチに近い。この点については、伝統的なワールドタイマーとは別物だとする論評もある。一方で、既存の89xx系の時針単独調整機構を活かし、耐磁性と精度基準を共有したまま多時間帯表示を実現した設計として評価する見方もある。いずれにせよ、世界時間表示を量産のマスター クロノメーターに統合した点に、この機械の性格がよく表れている。