物語
01四兄弟と発明家の家系
カシオの物語は、戦後間もない東京の小さな下請け工場から始まる。1946年4月、28歳の樫尾忠雄が三鷹市に設立した樫尾製作所は、顕微鏡の部品や歯車を作る町工場であった。忠雄は旋盤工として働きながら早稲田工手学校で技術を学んだ職人気質の長兄で、家計を支えるべく独立を選んだ。
ほどなく逓信省の技術者を辞して合流した二男の俊雄は、戦後の物資不足のなかで「指輪パイプ」を発明する。フィルターなしの紙巻きタバコを根元まで吸うための、指輪型に固定された金属の吸い口であった。粗末な発想にも見えるが、これが小さなヒットとなり、計算機開発の資金を生んだ。三男の和雄と四男の幸雄も加わり、四兄弟は「忠雄が財務、俊雄が開発、和雄が営業、幸雄が生産」という分業体制を組む。
02計算機メーカーとしての確立
俊雄が1949年に銀座のビジネスショウで電動計算機を目にしてから、ソロバンに代わる計算機の開発が一族の主題となった。歯車式やソレノイド式の試行錯誤を経て、1957年6月、リレー素子を使った小型純電気式計算機「14-A」が完成。これを契機にカシオ計算機株式会社が設立される。1960年代の電子式への移行期には経営危機にも見舞われたが、1972年の「カシオミニ」が状況を一変させた。「個人で持てる電卓」という構想は、それまでオフィス用設備だった電卓を家庭に持ち込み、業界の勢力図を書き換えた。
03時計事業への参入とカシオトロン
電卓事業で確立したLSIの量産技術は、新たな応用先を求めていた。「機械式からクオーツへ」の技術転換期にあった時計業界は、その応用先として最適と判断された。1974年11月、初の腕時計「カシオトロン QW02」が発売される。時・分・秒の表示にとどまらず、大の月と小の月を自動的に判別する世界初のオートカレンダー機能を搭載し、後にはうるう年まで処理するフルオートカレンダーへと発展した。「時間は1秒1秒の足し算」という俊雄の発想が、計算機と時計を一本の線で結んだ瞬間であった。
04G-SHOCKの誕生
時計事業の中心に座る存在となるのが、1983年4月発売のG-SHOCK「DW-5000C」である。発端は1981年、当時若手の意匠設計者だった伊部菊雄が社内会議に提出した「落としても壊れない時計」という一行の企画書だった。父から贈られた腕時計を歩道で落として壊してしまった経験が、伊部の出発点だったと伝わる。
開発は容易ではなかった。試作機は200を超え、伊部はカシオの羽村研究センターの三階トイレの窓から地面へと投げ落とす実験を繰り返したとされる。突破口は、公園で見たゴムまりの跳ね方からきたとされる「中空浮遊構造」だった。モジュール本体を緩衝材で硬く固めるのではなく、樹脂ケース内部のわずかな点で支えるという発想転換である。1983年4月、五段階の緩衝構造を備えた初代G-SHOCK「DW-5000C」が世に出る。
05ストリートとの邂逅、そして拡張
発売当初の評価は必ずしも芳しくなかった。「ごつい時計」は薄型化が主流だった当時の市場で異質な存在だったが、北米のスケーターや軍関係者、サーファーといった層に支持を広げ、1990年代には日本国内でもストリートファッションのアイコンとなる。1993年にはISO 6425準拠のダイバーズ仕様「フロッグマン DW-6300」が登場し、2005年にはヌーノ・ゴメスがスクーバ世界記録(水深318.25メートル)を樹立した際の腕にも巻かれていたと伝わる。
1994年の女性向け「Baby-G」、1996年の金属外装高級ライン「MR-G」、1998年のタフソーラー初搭載モデル「Raysman」と、ラインアップは耐久性を軸に多層化していく。1989年に発売され今日まで年300万本超の生産を続ける廉価モデル「F-91W」と並んで、カシオは「数十米ドルから数十万円超まで」という極端に広い価格帯を同一ブランドに同居させる稀有な企業となった。
0621世紀のカシオ
2000年にはアナログ機械式の意匠を採り入れた「EDIFICE」が登場、2004年にはハイエンド電波ソーラーアナログ「OCEANUS」が始動し、長らくデジタルの代名詞だったブランドはアナログ領域にも本格的に踏み込んでいく。2017年8月、G-SHOCKの累計出荷は1億本を超えた。2019年発売の薄型八角形ベゼル「GA-2100」は、その意匠から「カシオーク」の愛称で呼ばれ、世代を超えた支持を得ている。
経営体制では、2015年に創業家三男・和雄氏の長男である和宏氏が社長に就任、2023年には非創業家出身の増田裕一氏が社長兼CEOに、2025年6月には財務畑出身の高野晋氏が社長兼CEOに就いた。四兄弟の発明から始まったブランドは、世代を超えた新たな経営章へと進んでいる。