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PERSON · 1917–1993

樫尾 忠雄

Tadao Kashio
経営者 創業者

電卓の技術で腕時計をつくらせた、カシオ計算機の創業者。1974年の時計事業参入からG-SHOCKまでを社長として率いた。

01 — 概要 / OVERVIEW

樫尾忠雄(Tadao Kashio、1917-1993)は、カシオ計算機の創業者である。高知県に生まれ、14歳で旋盤工見習いとなり、1946年に東京・三鷹で樫尾製作所を興した。三人の弟とともに1957年、机上に置ける小型純電気式計算機「14-A」を商品化し、同年カシオ計算機を設立。1960年から1988年まで社長を務めた。時計産業の外から出発した企業を率い、1974年のデジタル腕時計「カシオトロン」で時計事業へ進出した。1983年にはG-SHOCKを世に出している。腕時計に電子技術と量産価格の論理を持ち込んだ経営者である。

02 — Life

生涯

A life in time

1. 高知から東京へ — 14歳の旋盤工

樫尾忠雄(Tadao Kashio)は1917年11月26日、高知県長岡郡久礼田村(現・南国市)に生まれた。父・茂、母・キヨノの長男である。農業だけでは暮らしが立たず、東京で大工をしていた叔父の誘いを受けて、一家は1923年に上京する。父は大工から左官、建築材料問屋の配達へと職を変えながら家計を支えた。八人家族の暮らしは楽ではなく、忠雄は尋常高等小学校を出るとためらわずに就職を選ぶ。

1931年、14歳で治工具メーカーの榎本製作所に旋盤工見習いとして入った。手先が器用だった忠雄は加工技術の習得に没頭し、これを自分の天職だと感じたと後年書き残している。腕を見込んだ工場主から、月謝の分だけ給料を上げるので専門学校へ通わないかと勧められる。こうして早稲田工手学校(現・早稲田大学)に学んだ。昼は工場、夜は教室という日々だった。1934年に日本タイプライター精機製作所へ移り、軍需工場などを経て20代半ばで独立する。

2. 三鷹の町工場と四兄弟

終戦翌年の1946年、忠雄は東京都三鷹市に樫尾製作所を設立した。顕微鏡の部品や歯車を削る町工場である。まもなく逓信省の技術者だった次弟・俊雄が退官して加わり、俊雄が着想し忠雄が形にするという二人三脚が始まる。最初の当たりは「指輪パイプ」だった。紙巻きたばこを根元まで吸うための金属製の吸い口を、指輪に固定した喫煙具である。

この売上を元手に、1949年から電気式計算機の開発が始まった。三弟・和雄と四弟・幸雄も工場に入り、四兄弟がそろう。最初に完成したソレノイド式は連続乗算ができず商品にならない。俊雄の主張で、電話交換機に使われていたリレー式へ設計をやり直した。試作の期間は8年に及んだ。

3. カシオ計算機と最初の挫折

1957年6月、机上に置ける小型純電気式計算機「14-A」が商品化される。同時にカシオ計算機株式会社が設立された。初代社長は父・茂で、忠雄は専務に就く。会社は数年で年商数億円規模へ伸び、1960年5月、忠雄が社長を継いだ。

だがリレー式の時代は長くなかった。半導体による電子式計算機が現れ、販売元の倉庫には在庫が積み上がって契約は解消される。忠雄は自宅と土地を担保に入れて在庫を引き取り、それを売りながら電子式の完成を待ったと伝わる。やがてLSIの登場で各社が参入し、価格競争は「電卓戦争」と呼ばれる消耗戦になった。忠雄が出した答えは、値段を先に決めて仕様のほうを削るという逆向きの設計だった。1972年発売の「カシオミニ」は、9か月あまりのうちに100万台を超える。

4. 時計事業、そして継承

電卓で首位に立ったカシオが次の柱に選んだのが時計だった。1974年11月、最初の腕時計「カシオトロン QW02」を発売する。1983年には耐衝撃構造のG-SHOCKが加わり、時計は電卓と並ぶ事業へ育っていく。忠雄は1980年に藍綬褒章、1990年に勲二等瑞宝章を受けた。

1988年、28年間務めた社長を退いて相談役となる。後任を弟たちに打診した際、俊雄は研究に専念したいとして固辞し、営業を担ってきた和雄が引き継いだと伝わる。退任後は日本経済新聞に「私の履歴書」を連載し、のちに『兄弟がいて』として単行本になった。1993年3月4日、75歳で死去している。

03 — Work

業績・代表作

What this person built

1. 四人で一人の経営者 — 分業という設計

カシオを特徴づけるのは、創業者が発明者ではないという構図である。忠雄が財務と全体の統括、俊雄が開発、和雄が営業、幸雄が生産という分担は、後年「適材適所の見本」と評された。技術者として出発した忠雄は、社長になってから経理を独学で学んでいる。発明を担う弟に開発の主導権を委ね、自らは資金と組織を引き受ける。この役割分担が、28年に及ぶ長期の経営を成り立たせた。

社員への向き合い方にも同じ姿勢が出ている。創業間もない頃、忠雄は社員を工場裏のごみ捨て場へ連れて行ったという。まだ使えるビニール線の塊を拾い上げ、資源のない日本ではもったいない、と語ったと伝わる。無駄を出すなと命じるのではなく、理由から伝える。「もったいない」は口癖だったと伝えられる。

2. 価格を設計する — 「安さも技術力」

忠雄の経営判断を貫くのは、価格を仕様の結果ではなく設計目標として扱う考え方である。電卓は3万円を切っては作れないというのが当時の常識である。カシオミニはその常識に対し、12,800円という値札から逆算して組み立てられた。8桁が普通だった表示を6桁に落とし、スイッチを簡略化し、ワンチップLSIを採用している。1983年の取材で忠雄は、ただ安いのではなく高い技術があってこそ安く作れる、という趣旨を述べている。

同じ取材では、他社と同じものを作るなら自社の存在価値はない、だから常に先行する必要があると語っている。カシオには成文化された社是がなく、代わりに「創造 貢献」と記した額が事業所に掲げられてきた。新しい技術が新しい市場を生むという発想は、後の時計事業の組み立て方にそのまま引き継がれる。

3. 時計産業の外から入る — カシオトロン

1974年11月に発売された「カシオトロン QW02」は、時計会社ではない企業がつくった腕時計だった。機械式からクオーツ式への転換期にあって、カシオは電卓で蓄えたLSI技術を最も生かせる領域としてデジタル表示を選ぶ。搭載されたのは、大の月と小の月を自動判別して日付を送るオートカレンダーである。カシオはこれを世界初としている。価格は58,000円と65,000円の2系列だった。

ここで示された発想は、腕時計を精度で競う装置ではなく、情報を処理する装置として見るものである。1976年の「X-1」には、時刻表示にストップウオッチ、カウンター、ワールドタイム、デュアルタイムが加えられた。機械式が姿勢差や日差を競っていた領域の隣に、機能の数と使い勝手で競う領域が開かれていく。

4. G-SHOCKを生んだ組織

1981年、若手技術者の伊部菊雄が社内会議に一行の企画書を出した。落としても壊れない時計を作りたい、というものである。ここから3人の開発チームが立ち上がった。200を超える試作を経て、1983年4月に初号機DW-5000Cが11,400円で発売された。忠雄がこの開発に個別に関与したことを示す記録は見当たらない。ただし、実績のない若手の一行から始まった企画が、2年の試作を許されている。しかもそれが1万円台で世に出た。この事実そのものが、彼の28年が用意した組織と価格観の産物である。

04 — Legacy

評価・後世への影響

What remains

忠雄が退いた1988年以降、カシオの経営は弟たちが引き継いだ。和雄が社長を2015年まで27年間務め、俊雄は会長から名誉会長となって2012年に没している。2015年からは、和雄の子息で忠雄の甥にあたる和宏が社長を務める。四兄弟でひとつの経営体をなすという創業期の形は忠雄の退任とともに終わったが、事業の骨格はそのまま残った。

腕時計は、忠雄の在任中に始まった事業の中で最も長く育ったものである。G-SHOCKは1980年代半ばに北米で評価され、その人気が日本へ戻る形で定着していった。2024年にはカシオの腕時計が50周年を迎え、初代カシオトロンを復刻した「TRN-50」が発売されている。起点として参照されたのは、忠雄が社長だった1974年である。

文化的な痕跡は、弟の名の下に残った。2013年、東京・成城の俊雄邸の一部を用いて樫尾俊雄発明記念館が開館した。いまも稼働する「14-A」やカシオトロンが公開されている。忠雄自身については『兄弟がいて 私の履歴書』がある。内橋克人『考える一族 カシオ四兄弟・先端技術の航跡』も四兄弟の軌跡を記録している。

時計史の側から見れば、忠雄は時計をつくらなかった経営者として位置づけられる。設計したのは弟と部下であり、彼が用意したのは資金と、価格から逆算する製品観と、失敗を試作で回収できる組織だった。腕時計は工芸と精度の産物であるという前提の外側から、電子技術と量産価格を持ち込んだ企業を率いた点に、その役割がある。

05 — Works

この人物が関わったモデル