本文へ
PERSON · 1952–現在

伊部 菊雄

Kikuo Ibe
デザイナー 技師

たった1行の提案書から中空構造にたどり着き、1983年にG-SHOCKを世に出したカシオ計算機の技術者

01 — 概要 / OVERVIEW

伊部菊雄(いべ きくお、Kikuo Ibe、1952年-)は、日本の技術者。カシオ計算機の腕時計「G-SHOCK」の開発者として知られる。1976年に上智大学理工学部を卒業して同社へ入社し、時計設計部でデジタル時計の構造開発を担当した。1981年、自身の腕時計を落として壊した経験から「落としても壊れない丈夫な時計」という1行だけの提案書を提出。2年の試作を経て、1983年に初代「DW-5000C」を商品化した。その後は商品企画へ移り、フルメタルの「MR-G」や「OCEANUS」を手がけている。2024年にカシオを退職し、現在も「Father of G-SHOCK」として開発の経緯を語る活動を続ける。

02 — Life

生涯

A life in time

新潟から羽村へ

伊部菊雄(いべ きくお、Kikuo Ibe)は1952年、新潟県柏崎市に生まれた。幼少期に一家で東京へ移り、池袋の椎名町で育つ。当初は医師を志したが、血を見るのが得意でなかったこともあり断念したと語っている。東京都立練馬高等学校を経て上智大学理工学部機械工学科に進み、1976年に卒業した。

就職活動は難航したという。本人の回想によれば、会社四季報でカシオ計算機を見つけて西新宿の本社を訪ねたものの、会社説明会はすでに終わっていた。受付で名前と大学名を書き残したところ、後日、入社試験の案内が届いたと伝えられる。1976年、カシオ計算機に入社。配属された時計設計部では、当時の主流だった薄型デジタル時計の構造開発を担当した。

1行の提案書と2年間

転機は1981年に訪れる。人とぶつかった拍子に腕時計が腕から外れて落ち、風防が割れ、針も裏ぶたも散らばった。父から贈られた時計だったと伝えられる。壊れたこと自体への驚きが、そのまま発想へ変わった。当時の設計担当者には毎月、新技術・新商品の提案書を出す決まりがあった。伊部はそこに「落としても壊れない丈夫な時計」の14文字だけを書いて提出する。構造案も実験計画もない提案は、それでも承認された。入社6年目、28歳のときである。

開発チームは「PROJECT TEAM "Tough"」と名づけられ、企画・設計・デザインの担当者を核に進んだ。羽村技術センター3階の窓から試作品をコンクリートへ落とし、1階まで拾いに降りる。原因を考えながら歩きたいという理由で、階段を使い続けたという。壊れては作り直す作業は2年続き、試作は200個を超えた。行き詰まった休日、公園で弾むボールを見たことが中空構造の着想につながったと本人は語っている。1983年4月、初代「DW-5000C」が発売された。

設計から企画へ

1980年代後半、伊部は商品企画部門へ移る。図面を引く立場から、何を作るかを決める立場へと軸足を変えた。1994年に始めたフルメタルG-SHOCKの計画、発展途上国向けの低価格帯モデル、2004年の「OCEANUS」など、担当は幅広い。1997年にはロンドンの雑誌『THE FACE』でファッションに影響を与えた100人に選ばれたと伝えられ、2012年には自身の仕事論をまとめた著書を刊行している。

2008年からは各地のファンイベント「SHOCK THE WORLD」に登壇し、通訳を介さず現地の言葉で開発の経緯を語ってきた。小学校へ出向く発明教室にも取り組む。2024年11月にカシオ計算機を退職し、同年12月には香港でデザインリーダーシップ賞を受けた。2025年からはK.Iプランニングを拠点に、自身の経験を伝える講座を主催している。

03 — Work

業績・代表作

What this person built

中空構造という解答

G-SHOCK以前の腕時計は、薄く軽く作ることが技術力の証しだった。伊部が掲げた「落としても壊れない」は、その潮流に逆らう主題である。目標は「トリプル10」として数値化された。10mの落下に耐え、10気圧防水を備え、電池寿命10年を確保する。想定した使い手は、羽村技術センターの前で道路工事をしていた作業員5人だったという。削岩機を扱う現場では腕時計が壊れるため、誰も身に着けていなかった。

当初はケースの外側に緩衝材を足す方向で試作が重ねられた。ゴムを増やしても内部のモジュールは壊れ、ソフトボール大まで膨らんでようやく耐えたと振り返っている。解決は逆の発想から来た。硬く守るのではなく、衝撃を伝えない。モジュールを複数の点だけで支え、ケースの中で浮かせる中空構造である。緩衝の主役は外殻ではなく内部の支持にあり、ウレタン樹脂の外装がその外側を包む。この構造は今日のG-SHOCKにも基本として受け継がれている。

実証が知名度を作った

1983年の発売直後、日本での反応は鈍かった。厚く大きい時計は、当時の市場が求めるものではなかった。状況を変えたのは米国である。1984年に全米で放映されたテレビCMは、アイスホッケー選手が氷上のG-SHOCKをパック代わりに打つという内容だった。誇大広告ではないかという疑いが視聴者から寄せられ、噂を検証するテレビ番組が同じ条件で実験する。結果は映像のとおりで、路上でトラックにひかせる追加実験にも耐えた。

この一件で耐衝撃性が知られ、1990年代には西海岸のスケートボーダーらへ支持が広がる。日本では逆輸入のかたちでブームが起きた。カシオの公表では、累計出荷は1億本を超える。性能を語るのではなく実際に試させるという見せ方は、伊部が後年、世界各地のイベントで開発の経緯を語り続ける姿勢にもつながっている。

樹脂の外へ

1990年代前半、伊部はG-SHOCKの担当を離れ、低価格帯のモデルを扱っていた。数千円の時計は数こそ出るが、話題になることは少ない。そこで始めたのが、金属外装のG-SHOCKを作る計画である。カシオの記録によれば、社内の承認を得ないまま有志8人を集め、就業時間外に進められた。金属は樹脂より重く、衝撃を吸収しない。ラバーによる支持構造で耐衝撃性を確保し、1996年に「MR-G」として発売された。価格は通常のG-SHOCKの数倍にあたる。

以後も企画は素材と価格帯を広げていく。2004年には電波ソーラーの「OCEANUS」を立ち上げた。2015年にコンセプトモデルとして披露された18金製のG-SHOCKは、要望を受けて開発が続けられ、2019年に35本限定で商品化されている。同じ2019年、初代「DW-5000C」が国立科学博物館の重要科学技術史資料(未来技術遺産)に登録された。素材と価格帯が変わっても、中空構造という前提だけは手放されていない。

04 — Legacy

評価・後世への影響

What remains

G-SHOCKがもたらしたのは一つの商品ではなく、耐衝撃という設計主題そのものだった。薄く軽く作ることが技術力の証しとされた時代に、厚く重い時計を正解として示した判断は、腕時計の評価軸を一つ増やした。樹脂の外装が意匠として受け入れられる素地も、この系統から生まれている。中空構造は40年を経た現在も基本設計として残り、金属外装や貴金属のモデルにも形を変えて引き継がれている。

開発の経緯そのものが、企業文化として制度化された点も特徴的である。14文字の提案書、200を超える試作、公園のボールという逸話は、カシオの内外で繰り返し語られてきた。技術の内容ではなく、行き詰まりから解決へ至る過程が共有される対象になっている。「Father of G-SHOCK」という呼称は、この語り部としての役割を含んだものである。

2019年、初代DW-5000Cは国立科学博物館の未来技術遺産に登録された。工芸と精度を軸としてきた腕時計史のなかで、電子技術と量産を前提にした製品が資料として位置づけられた例である。

退職後も講座や発明教室を通じて経緯を伝える活動が続いている。開発者本人が製品の由来を語り続けるという関わり方は、ブランドの記憶を人に紐づけて残す方法として、他社にも参照されている。子どもへ向けた発明教室に力が置かれている点も、この活動の性格を示している。

05 — Works

この人物が関わったモデル