服部 金太郎
「東洋の時計王」と呼ばれた、セイコー創業者。1892年に精工舎を興し、国産初の腕時計「ローレル」を世に送った。
服部金太郎(Kintaro Hattori、1860-1934)は、現在のセイコーグループの源流を築いた日本の実業家である。幕末の江戸に生まれ、13歳で時計商を志して奉公に出る。1881年、21歳で東京・京橋に服部時計店を開業し、1892年には製造部門として精工舎を設立。掛時計から懐中時計、目覚時計、そして1913年の国産初の腕時計「ローレル」へと、日本の時計産業を一代で築き上げた。「東洋の時計王」と呼ばれ、1924年にはSEIKOブランドを立ち上げ、現在の世界企業セイコーの礎を据えた。
生涯
1. 銀座に生まれて — 時計商を志す
服部金太郎は1860年(万延元年)10月9日、現在の東京・銀座四丁目近くに生まれた。父は古物商を営んでいた。8歳で寺子屋「青雲堂」で学び、11歳のとき京橋の洋品雑貨問屋「辻屋」に奉公に出る。辻屋は直輸入を手がける雑貨業界の先駆者であり、舶来品の流通実務に触れた経験は、後の時計輸入事業の素地となる。
13歳になった金太郎は、辻屋の近くにあった老舗時計店・小林時計店の様子を見て、時計商を志したと伝わる。雨の日でも修理という収入源があること、開業資金を貯めやすいことが理由であったという。1874年(明治7年)、日本橋の亀田時計店に奉公し、その後上野の坂田時計店へ移って修理と販売を学んだ。1877年、17歳のときに自宅内に「服部時計修繕所」の看板を掲げる。これがのちの服部時計店の前身となる。
2. 服部時計店と精工舎の創業
1881年(明治14年)、21歳の金太郎は東京・京橋に服部時計店を創業する。当初は中古時計の修理と販売を中心としたが、1885年には横浜居留地の外国商館との直接取引を始め、舶来時計の卸・小売へ事業を広げた。約束を必ず守るという姿勢が外国商館の信頼を得て、新着品を優先的に回してもらえたことが初期成長の鍵となったと、本人が後年語っている。
時計の流通を握った金太郎は、次の段階として国産化に踏み込む。1892年(明治25年)、技師長に天才技術者と評された吉川鶴彦を迎え、本所石原町(現・墨田区)に従業員10余名の小さな工場を立ち上げる。これが精工舎の出発である。社名には「精巧な時計を作る」という決意が込められていた。
3. 国産時計の確立と「東洋の時計王」
精工舎は掛時計から始まり、1895年に懐中時計「タイムキーパー」、1899年に国産初の目覚時計、1909年に大衆向け懐中時計「エンパイヤ」と矢継ぎ早に製品を投入する。1913年(大正2年)には国産初の腕時計「ローレル」を発売した。世界で腕時計の量産が始まったばかりの時期であり、立ち遅れていた日本の時計産業が欧米に肩を並べ始めた象徴的な一品となる。
第一次世界大戦の勃発は、精工舎に飛躍の機会をもたらす。ドイツ製時計の輸出が途絶える中、精工舎はイギリスから約60万個、フランスから約30万個の目覚時計を受注する。金太郎は開戦直後に大量の材料を確保しており、他の国産メーカーが材料不足に陥る中で需要に応えた。1915年、国産時計産業発展への貢献により従五位に叙され、アジア市場で「東洋の時計王」と呼ばれるようになる。
4. 関東大震災とSEIKO、晩年
1923年(大正12年)9月、関東大震災が首都を襲う。精工舎は給水鉄塔を残してすべて焼失し、服部時計店の仮事務所も自邸も失われた。62歳の金太郎は四日後には再建を宣言し、翌月には仮事務所を開く。震災前に顧客から預かっていた修理品約1500個が焼失した際は、新聞広告で同等の新品を返済し、商人としての信用を守った。
復興のさなか、新ブランドの腕時計が動き出す。試作品は震災前日に完成しており、焼失を免れていた。1924年(大正13年)、ここから「SEIKO」の商標が使われ始める。1930年には財団法人服部報公会を設立し、学術奨励事業に乗り出した。1932年には服部時計店本店ビル(現在の和光本店)が落成。1934年(昭和9年)3月1日、73歳で逝去した。
業績・代表作
1. 流通から製造へ — 「常に一歩先に」
金太郎は自身の経営姿勢を「常に一歩先に」という言葉で繰り返し説いている。「他人が仲間同志で商売しているとき自分は外国商館から仕入れ、他人が商館取引を始めれば直輸入、他人が直輸入を始めれば自分の手で製造する」。1881年の時計店創業、1885年の横浜外国商館との直接取引、1892年の精工舎設立という三段階の事業展開は、この理念の実践そのものであった。流通の利益に安住せず、製造へと踏み込んだ判断が、後の国産時計産業の基盤を形作る。
2. 国産時計の系譜 — タイムキーパー、エンパイヤ、ローレル
精工舎の製品群は、日本における近代時計の系譜そのものを構成する。1892年の掛時計、1895年の懐中時計「タイムキーパー」、1899年の国産初の目覚時計、1909年の大衆向け懐中時計「エンパイヤ」、そして1913年の国産初の腕時計「ローレル」。中でもエンパイヤは1934年まで26年間にわたり生産された息の長いモデルとなり、輸入懐中時計を国内市場から押し戻した。ローレルは世界で腕時計が普及し始める直前のタイミングで投入され、翌1914年の第一次大戦による腕時計の急速な需要拡大に間に合うこととなる。
3. 垂直統合と最新鋭工場
金太郎は国産時計産業の弱点を機械設備の遅れに見ていた。精工舎では創業翌年から5馬力の蒸気機関を導入し、1900年と1906年には自ら欧米を視察して最新工作機械を買い付ける。スイスや他の国産メーカーが採用していた水平分業ではなく、部品から組立まで一貫して行う垂直統合方式を志向した。さらに工作機械の内製化を進め、量産のボトルネックだった部品加工を一新する「ピニオン自動旋盤」を自社開発する。長年赤字が続いた懐中時計事業が一気に黒字化した、生産技術上の転換点となった。
4. 「精巧」と「信用」 — 経営の核
金太郎の経営哲学を貫くのは「精巧な良品」と「信用」の二語である。「良品は必ず需要者の愛顧を得る」と語り、社名に「精工」の二字を据えた。同時に「私の店が大層都合がよかったのは、支払をキチンキチンとしたから」と述べ、信用を商売の基盤に置いた。1923年の関東大震災で顧客から預かった修理品約1500個が焼失した際、申し出のあった顧客に同等の新品を返済した一件は、この哲学の象徴として今も語り継がれる。「急ぐな、休むな」「常に一歩先に」という言葉は、いまもセイコーの社内に伝わっている。
評価・後世への影響
金太郎の没後、経営は服部家三代へと継承され、精工舎と服部時計店はセイコーグループへと発展していく。1956年に国産初の自動巻腕時計、1969年に世界初のクオーツ腕時計「アストロン」、1999年に世界初のスプリングドライブを発表し、「世界の時計セイコー」を実現していった。1964年の東京オリンピック公式計時担当は、金太郎が掲げた「世界から学び、世界を市場とする」志の到達点として、セイコー社内では位置づけられている。
文化的な痕跡も多く残る。1930年に金太郎が設立した財団法人服部報公会は、学術奨励・公益事業援助を目的に現在も活動を続けている。1932年に竣工した服部時計店本店ビルは、現在も銀座四丁目交差点の角に「和光」として建ち、銀座の象徴的な景観の一部となっている。2021年には創業140周年と金太郎の生誕160周年を記念して、グランドセイコーから二本の限定モデルが発表された。
近年では作家・楡周平による伝記小説『黄金の刻 小説服部金太郎』(2022年刊)が出版され、2024年にはテレビ朝日でドラマ化されている。創業者個人を主役としたドラマ化は、明治以来の日本人経営者の中でも例の少ない事例であり、金太郎の生涯が一企業の歴史を超えて、近代日本産業史の物語として読まれていることを示している。