設計思想
1. 60周年が要請したもの
グランドセイコーは1960年に誕生し、2020年に60周年を迎えた。記念年に向け、ブランドは複数のモデルを段階的に発表していた。当初は青文字盤の限定群が中心で、いずれも技術的な刷新を伴うものではなかった。そこに、3月のプレスリリースで投じられたのがSLGH002である。
9Sキャリバーの系譜は1998年に開かれた。Cal.9Sはその後20年以上にわたり、グランドセイコーの機械式モデルの基盤として機能してきた。しかし毎時36,000振動 (5Hz) のハイビート機構は、伝統的に高エネルギー消費とパワーリザーブの短さという課題を抱えていた。前世代の9S85のパワーリザーブは55時間にとどまる。60周年という節目に求められたのは、この構造的な制約を超える「次の20年の基盤」となるムーブメントだった。
2. 受け渡されたバトン
SLGH002の役割は、新世代キャリバー9SA5の幕開けを告げることに尽きる。9SA5は開発に9年を要したと公表されている新規設計のムーブメントであり、デュアルインパルス脱進機、グランドセイコーフリースプラング・テンプ、横並びの輪列構成、ツインバレル機構という新要素を備える。5Hzのハイビートでありながら80時間のパワーリザーブを獲得し、+5/-3秒/日の精度を実現したとされる。スイス式レバー脱進機以外の方式で量産化に至ったのは、オメガのコーアクシャル以来のことと位置づけられる。
この心臓を最初に収めた器が、なぜ18Kイエローゴールドの100本限定だったのか。新ムーブメントの第一作を、もっとも特別な姿で世に問うという意思表示である。SLGH002はムーブメントを売る前に、ムーブメントの位置づけを示すための一本だった。
3. その後の系譜
同年10月、ステンレススチール製のSLGH003が限定1,000本で発表され、12月に発売された。翌2021年には「白樺」の文字盤で知られるSLGH005が通常生産モデルとして登場し、9SA5は限定の枠を離れていく。SLGH002はその展開の起点に立つ一本として、現在も参照され続けている。
意匠分析
ケースは18Kイエローゴールド製で、径40mm、厚さ11.7mmに収まる。Cal.9S85を搭載した従来世代がケース径39.5mm・厚さ13mmだったのと比べると、径は0.5mm拡大されつつ、厚みは1.3mm削り取られている。新キャリバーの薄型化 (ムーブメント厚5.18mm) が、この寸法を可能にしている。
本機の意匠は「エボリューション9 スタイル」と命名された設計言語の最初の具現であり、1967年に44GSで確立された「グランドセイコー・スタイル」を起点としつつ、現代の装着感を意識して再設計された。ラグは従来よりわずかに幅広で取り付けられ、ケースサイドにはゆるやかなカーブが付与されている。竜頭はケースの低い位置に配され、重心が腕に落ちる構造となった。ラグ間距離は47mm、ラグ幅は22mm。
文字盤は銀色のサンレイ仕上げで、12時下にグランドセイコーのロゴが置かれる。本機の特徴のひとつが、従来よりも複雑な造形のインデックスとハンドであり、面取りと研磨が幾何学的に切り分けられている。針はピリッとした稜線を持ち、夜光は施されない。3時位置にデイト窓を備える。
風防はボックス型のサファイアガラスで、わずかに膨らんだ造形が斜めからの視認性を変化させる。ケースバックはサファイアの裏蓋で、Cal.9SA5の地板が観察できる。地板の橋は、岩手山の稜線と、スタジオの近傍を流れる雫石川の蛇行を意匠化したと公式に説明されている。SLGH002では地板の留めネジがブルードスチール仕上げで、後発のSLGH003との数少ない機構面の差分となる。ブレスレットは備わらず、クロコダイル革のストラップに三つ折れバックルが組み合わされる。
系譜と歴史
SLGH002は2020年3月5日のプレスリリースで発表された。同年は新型コロナウイルスの感染拡大によりバーゼルワールド2020が中止となった年であり、グランドセイコーは独自のオンライン経由でその姿を世界に伝えた。
製造はスタジオ雫石(岩手県)で行われた。同スタジオは2020年に新たな建屋が開設された、グランドセイコー機械式モデル専用の組立拠点である。
発売は同年8月1日。希望小売価格は4,500,000円(税抜)で、グランドセイコーブティックおよびセイコーフラッグシップサロンの限定流通とされ、世界限定本数は100本に設定された。100という数字は、新世代キャリバーの第一号機としての象徴性を担う数値である。
同年10月、ステンレススチール・ケースに同ムーブメントを搭載するSLGH003が限定1,000本で発表され、12月に発売された。SLGH002との機構面の差分は、地板留めネジの仕上げ(SLGH002はブルードスチール、SLGH003は素材色)が中心とされる。
2021年、Cal.9SA5は「白樺」文字盤のSLGH005で通常生産モデルへと展開する。これにより9SA5は限定の枠を超え、グランドセイコー機械式モデルの基幹キャリバーとして広がっていく。
SLGH002そのものは、限定100本がブティック流通分で完了し、現在は新品で入手可能な一次市場の在庫は事実上存在しない。