ジャン=マルク・ヴァシュロン
1755年、一通の徒弟契約書から始まった工房。ヴァシュロン・コンスタンタンの起点に立つジュネーヴの時計師
ジャン=マルク・ヴァシュロン(Jean-Marc Vacheron、1731-1805)は、ジュネーヴ共和国の時計師である。18世紀のジュネーヴで屋根裏の仕事場に集った職人層、いわゆるカビノティエの一人として出発した。1755年9月17日、24歳のヴァシュロンは公証人の面前で最初の徒弟と契約を交わす。この一枚が、ヴァシュロン・コンスタンタンの存在を示す現存最古の文書として扱われている。工房は息子アブラアム、孫ジャック=バルテルミへと引き継がれ、1819年にフランソワ・コンスタンタンを迎えて現在の社名に至った。創業者本人の署名を持つ時計は、今も1本だけ同社に伝わる。
生涯
1. 織工の子、時計の都市に育つ
1731年4月29日、ジャン=マルク・ヴァシュロンはジュネーヴ共和国に生まれた。父ジャン=ジャック・ヴァシュロンは織工だったと伝わる。当時のジュネーヴには800人前後の時計職人がいたとされ、時計は市の産業の中で突出した位置を占めていた。職人たちはカビノティエと呼ばれる。語源は屋根裏の作業室、カビネである。細密な仕事には光が要る。窓に近く、日の当たる時間の長い最上階が仕事場に選ばれた。
カビノティエは一般の工員より待遇が良く、賃金は倍ほど、午後の早い時刻には手を止めたと記録されている。読書と議論を好む層でもあった。ジャン=ジャック・ルソーは、父の仕事場で読書の習慣を得たと書き残している。ヴァシュロンもこの環境で修業を積み、20歳を過ぎた頃には一人前の職人と目されていたと伝わる。
2. 1755年9月17日
1755年9月17日、24歳のヴァシュロンは公証人の前で徒弟契約に署名した。相手はエゼ・ジャン・フランソワ・エティエという若者である。期間は5年、報酬は1,000フローリンと伝えられる。
契約が記録しているのは会社の設立ではない。自分の技を他人に渡すという判断である。ただし当時のジュネーヴで徒弟を取ることは、親方として独立した工房を構えた証でもあった。ヴァシュロン・コンスタンタンがこの一枚を創業の日付として扱う根拠はそこにある。
メゾンの伝承は、若き日のヴァシュロンをルソーやヴォルテールと交わる人物として描く。ヴォルテールがジュネーヴ近郊に居を構えたのは、たしかに1755年である。ただし両者との交友を裏づける同時代の記録は確認されていない。
3. 動乱のなかの工房
1773年2月11日、父ジャン=ジャックが没した。同じ年の9月29日、ヴァシュロンが銀貨1,000ポンドの借入を受けたとする公証記録が残る。時計は贅沢品である。買い手が減れば工房から先に傷む。
1782年、ジュネーヴの革命が失敗に終わると、市はフランス・サルデーニャ・ベルンの連合軍に占領された。経済は締めつけられ、輸出を頼みとする時計産業は買い手を失う。ヴァシュロンには成人した子が5人あり、うちルイ=アンドレ(1755年生)とアブラアム(1760年生)が時計師の道を選んだ。父が二人を自ら仕込んだ可能性は高いが、修業の記録そのものは残っていない。
1785年、ヴァシュロンは工房をアブラアムに委ねる。アブラアムは翌1786年にアネット・ジロと結婚し、以後の作品にA. Vacheron Girodと刻んだ。フランス革命がジュネーヴの時計産業を直撃するのは、その数年後である。ジャン=マルク・ヴァシュロンは1805年、ジュネーヴで没した。74歳だった。
業績・代表作
1. 署名の残る1本
1755年製とされる銀ケースの懐中時計が、ヴァシュロン・コンスタンタンの資料室に現存する。鍵巻き、エナメル文字盤、彫りを施したテンプ受け。ムーブメントにはJ. M: Vacheron A GENEVEの署名がある。創業者本人の名を記した時計として確認されているのは、この1本だけである。
当時のジュネーヴでは、工房主が全部品を自作するわけではない。ファブリックと呼ばれた市内の分業体制がすでに機能しており、親方は部品を集め、調整し、仕上げ、自らの名で世に出した。署名は単独制作の証ではなく、品質の責任がどこにあるかを示す印である。
2. 複雑機構とギヨシェ文字盤
メゾンの年表は、1770年に工房として最初の複雑時計を、1779年にギヨシェを施した文字盤を挙げる。いずれも同社の公式年表に基づく記述であり、研究者のあいだでは時期に異論もある。現存作との突合は十分ではない。
複雑機構そのものは18世紀半ばまでにロンドンやパリで数多く作られており、これらを世界初と呼ぶことはできない。意味があるのは別の点にある。十数人規模の工房が、単価の高い複雑品と装飾技法の双方へ同時に手を伸ばしていた事実である。ギヨシェは19世紀に文字盤装飾の基礎技法となり、今日までヴァシュロン・コンスタンタンの仕上げの中核に残っている。
3. 事業の核に「渡すこと」を置く
ヴァシュロンの業績を1本の時計で測るのは難しい。現存作は少なく、記録も断片的である。残ったのは工房そのものと、それを動かし続ける仕組みだった。徒弟を取り、技を渡し、次の代がまた徒弟を取る。
息子のルイ=アンドレとアブラアムは、それぞれ自身の署名で仕事をした。兄はLouis Andre Vacheron、弟は1785年からAbraham Vacheronと刻んでいる。兄弟が共同で手がけた品にはVacheron Frèresの署名が用いられた。従弟ジャン=ポールの作にはJ P Vacheronがある。同時代のジュネーヴには、複数のヴァシュロン署名が併存していた。
兄ルイ=アンドレは1814年に没し、その子ピエール=アンドレの代を最後に、1837年頃この系統は時計の世界から姿を消す。残ったのはアブラアムの側だった。1810年には孫のジャック=バルテルミが工房を率い、1819年にフランソワ・コンスタンタンを共同経営者に迎える。
当時の法制では、企業は所有者個人の名でしか商売ができなかった。社名は代替わりのたびに書き換えられる。その制約のもとでヴァシュロンという名だけが世代を越えて残ったことが、1755年の契約書がのちに持つことになる重みを準備した。
評価・後世への影響
創業年が30年遡るまで
19世紀後半まで、この工房の創業年は1785年とされていた。アブラアムが自らの署名で仕事を始めた年である。1868年から1870年にかけて、当主シャルル・ヴァシュロンはジュネーヴ市の文書館に創業年の調査を依頼した。回答には1755年という年が挙がったものの、確証を得る前の1870年に彼は24歳で世を去っている。
決着は1952年についた。ジュネーヴ市の時計コレクションを預かる学芸員ウジェーヌ・ジャケが、州立文書館で1755年の徒弟契約書を見つけたのである。契約書は会社の保管資料には存在せず、外部の調査によって初めて確認された。創業年は30年遡り、以後この日付が公式のものとなった。
日付が残したもの
現在のヴァシュロン・コンスタンタンは、この年号を繰り返し参照する。1992年の極薄ミニッツリピーター用ムーブメントはCal. 1755と名づけられた。2005年の250周年、2015年の260周年、2025年の270周年も、すべて1755年から数えられている。同社は創業以来操業を中断していない時計メゾンとして自らを位置づけており、その主張の根拠は、この一枚の契約書に置かれている。
創業者の名を冠した記念モデルは作られていない。残されたのは日付と1本の懐中時計、そして技を渡すと定めた契約の文言である。