フランソワ・コンスタンタン
ジュネーブの商人からヴァシュロン・コンスタンタンの共同経営者へ。30年を旅に費やし、社名と一つの標語を残した人物
フランソワ・コンスタンタン(François Constantin、1788-1854)は、スイス・ジュネーブの商人であり、ヴァシュロン・コンスタンタンの共同経営者である。1819年4月、創業者の孫にあたる時計師ジャック=バルテルミ・ヴァシュロンと組み、社名は Vacheron & Constantin となった。時計を作る側ではなく売る側を担い、以後30年を移動に費やしてイタリア、フランス、南北アメリカに販路を開いた。同年7月5日にトリノから書き送った手紙の一節「Faire mieux si possible, ce qui est toujours possible」は、後にメゾンの標語として受け継がれた。
生涯
1. 商人の家に生まれて
フランソワ・コンスタンタン(François Constantin)は1788年、ジュネーブに生まれた。父は商人であり、少年期から商いの現場に近い場所で育っている。メゾンの社史は、彼が若いうちからアルプスとジュラの街道を往来し、そこで商才を養ったと記す。
当時のジュネーブは、時計と宝飾に関わる職種の総体を指す「ラ・ファブリーク」を経済の柱としていた。ただしコンスタンタンが育ったのは、その繁栄が大きく揺らいだ時期でもある。1798年から1813年までジュネーブはフランスに併合され、ナポレオンによる大陸封鎖は輸出産業を直撃した。工房の廃業が続き、時計商は販路そのものを組み直す必要に迫られていた。
彼が時計の商いに入った経緯を伝える記録は乏しい。ジュネーブの時計商ジャン=フランソワ・ボーテのもとで販売を担ったのが最初の経験だったとする資料があるが、裏づけとなる一次史料は確認できていない。兄弟のアブラアン・コンスタンタン(Abraham Constantin)はエナメル画家として名を成し、セーヴルの窯やフランス王室と関わっている。
2. 1819年4月の提携
一方のヴァシュロン家は、1755年にジャン=マルク・ヴァシュロンがジュネーブで工房を開いて以来、三代にわたって時計を作ってきた。1810年に経営を継いだ孫のジャック=バルテルミ・ヴァシュロン(1787-1864)は、フランスとイタリアへの輸出に乗り出す。ただし商号は落ち着かなかった。1786年から続いた叔父との共同経営はヴァシュロン=ジロと称し、1816年に叔父が退くと縁戚のシャルル=フランソワ・ショサが加わってヴァシュロン=ショサとなる。この体制も数年で終わった。
ショサに代わって共同経営者となったのが、1788年生まれのコンスタンタンである。1819年4月の提携により、商号はヴァシュロン・エ・コンスタンタンへ改まった。ヴァシュロンとは一歳違いで、複雑な機構を備えた時計への関心を共有していたと伝わる。工房と職人の統率はヴァシュロンが、商いの一切はコンスタンタンが引き受ける。この分業が、以後30年あまりの体制となった。
3. 旅のなかで終えた生涯
提携から数か月後、コンスタンタンはすでにトリノにいた。以後の彼の生涯は、記録に残る限り移動の連続である。馬車と帆船しかない時代である。イタリアやフランスへの往復には数週間を要し、大西洋を越える航海は片道で一か月以上かかった。メゾンは、彼が30年に及ぶ商用の旅を通じて多くの新しい市場を開いたと記している。
コンスタンタンは1854年に世を去った。ヴァシュロンが没するのはその10年ほど後で、以後の経営は両家の相続人へ引き継がれていく。彼自身は時計師ではない。それでも社名にその姓が残り続けたのは、商いの側を担う者が対等の共同経営者だったことの証しである。
業績・代表作
1. 商いを担うという役割
コンスタンタンが持ち込んだのは資本でも技術でもなく、売る仕組みだった。当時のジュネーブでは、製作と販売の双方を一人の主人が抱える形が珍しくなく、遠方の顧客を開拓するには本人が旅に出るほかなかった。ジャック=バルテルミ・ヴァシュロンは自ら各地を回っていたが、工房の統率と子どもたちへの技術の伝授を並行させるには限界があった。
1819年の提携は、この負担を二人で分ける取り決めである。製作をジュネーブに固定し、販売を移動する側へ切り出す。新しい共同経営者の姓は、そのまま商号に掲げられた。この Vacheron & Constantin という表記は、アンパサンドが外れる1970年まで用いられている。
2. 販路の設計
コンスタンタンが最初に厚くしたのはイタリアである。ナポレオン失脚後に回復した交易路をたどり、トリノやミラノといった都市で顧客を広げた。次いで大西洋の向こう側に軸足が移る。北米への輸出は1810年代に始まっていたが、現地に常駐する代理人を置いたのは1832年のニューヨークが最初で、ジョン・マニャンがその任にあたったとされる。1835年前後にはブラジルとキューバにも販売の拠点が置かれたと伝わる。
重要なのは、彼が自ら売り歩くのをやめ、各地に代理人を配して網を張った点である。単発の商談ではなく、継続して注文が届く経路を作る。19世紀のスイス時計が輸出産業として成立していく過程を、この会社は早い段階で先取りしていた。
3. 「できるなら、より良く」
1819年7月5日、コンスタンタンはトリノから共同経営者へ手紙を送る。そこに記された「Faire mieux si possible, ce qui est toujours possible」(できるならより良く、それは常に可能である)は、後にメゾンの標語として掲げられた。
もっとも、この一文はもともと綱領として書かれたものではない。市場で顧客が何を求めているかを伝え、製作の側に注文をつける商用書簡の一節である。売る者が作る者に品質を要求するという関係が、提携の初年からすでに動いていた。同時代の資料は、彼が複雑な機構を備えた時計の製作を繰り返し促したと伝える。1824年のジャンピングアワー懐中時計や、イタリア地図をシャンルヴェ・エナメルで表した一作は、そうした市場との往復から生まれた製品にあたる。
4. 生産の合理化へ
販路が広がれば、品質を保ったまま数を増やす方法が要る。ヴァシュロン・エ・コンスタンタンが時計師ジョルジュ=オーギュスト・レショーを技術責任者に迎えたのは、この要請に応えるためだった。招聘の年は1833年とする資料と1839年とする資料があり、一致していない。レショーは1839年にパントグラフを時計製造へ応用し、部品の規格化と互換性への道を開く。1844年には、その功績に対してジュネーブ芸術協会から金メダルが贈られた。
評価・後世への影響
没後の評価と影響
1854年にコンスタンタンが没した後も、社名から彼の姓が消えることはなかった。1877年には商号がヴァシュロン・エ・コンスタンタン・ファブリカン・ジュネーブへ改められ、1880年にマルタ十字が商標として登録される。両家の相続人による経営は19世紀を通じて続き、コンスタンタン家が資本から退いたのは20世紀に入ってからとされる。1970年にアンパサンドが外れ、現在のヴァシュロン・コンスタンタンという表記に落ち着いた。
彼が残したもう一つのものが、トリノからの手紙の一節である。この標語は現在もメゾンの公式な文書に掲げられ、創業年である1755年と並んで語られる。商用書簡の一行が200年後の企業理念として機能している例は、時計産業でも多くない。
腕時計史における位置づけは、機構や意匠の発明者としてのそれではない。ジュネーブで作り、代理人の網を通じて世界で売るという形を早くに確立した点にある。19世紀のスイス時計産業は、輸出によって規模を得て、その規模が生産の機械化と規格化を促した。コンスタンタンの30年の移動は、その循環の出発点に置かれる仕事だった。時計史は作り手の名で語られることが多いが、売り手の側にも歴史があることを、この人物の経歴は示している。