設計思想
1. 創立260周年と新コレクション「ハーモニー」
2015年、ヴァシュロン・コンスタンタンは創立260周年を迎えた。1755年9月17日にジュネーヴで創業して以来、現存最古のマニュファクチュールとして継続生産を続けてきた節目である。同社はこの年、57もの複雑機構を集積した一品物の懐中時計Reference 57260と並行して、新たな腕時計コレクション「ハーモニー」を発表した。
ハーモニーはSIHH 2015で初公開され、当初の7本のRefはいずれも限定生産で投入された。プラチナケースのウルトラ・シン・グランド・コンプリケーション・クロノグラフ(5400S/000P-B057、10本)、トゥールビヨン・クロノグラフ(5100S/000P-B056、26本)、デュアルタイム3型(計625本)、ダイヤモンドベゼルのスモール・モデル(5005S/000R-B053、260本)、そして本機5300S/000R-B055(260本)である。コレクション全体には、クッション型ケースと青のアラビア数字、260周年記念のフルリザンヌ彫装飾という共通言語が貫かれている。
2. 1928年クロノグラフからの距離
本機が直接の源流とするのは、1928年にヴァシュロン・コンスタンタンが手がけたモノプッシャー・クロノグラフである。脈拍計目盛りを刻んだクッション型のイエローゴールドケースを持つ、いわゆる「ドクターズウォッチ」だった。当時の医師は腕時計のクロノグラフで30拍ぶんの時間を計測し、目盛りから患者の脈拍数を読み取っていたと伝わる。
5300S/000R-B055はこの原型から、脈拍計目盛り、クッションケース、単一ボタン式の操作方法を受け継ぐ。一方、ケース寸法は42mm×52mmへ拡大され、ラグはケースバンドから途切れることなく彫り出される一体形状に改められた。サファイアクリスタル風防と裏蓋を備え、文字盤には1928年のバイコンパクス・レイアウトに6時のパワーリザーブ表示が加えられている。医療現場の道具という原型の文脈は、現代の鑑賞対象としての性格へと書き換えられた。
3. ハーモニー史におけるこのRefの位置
ハーモニーは260周年翌年の2016年10月、10本の新Refを加えて通常コレクション化された。本機の後継となる5300S/000R-B124はこのとき発表されている。ケース・ムーブメントは共通だが、文字盤のアラビア数字色は青からアンスラサイトに改められ、ミニッツトラックはレールウェイ式となり、バランスコックの260周年フルリザンヌ彫りも省かれた。
すなわち5300S/000R-B055は、ハーモニーが定型コレクションへ移行する直前の、限定260本にのみ与えられた「コレクション誕生時の姿」を留めるRefである。
意匠分析
ケースは18K 5Nピンクゴールド製、42mm×52mm、厚さ12.81mm。1928年原型のクッション形状を引き継ぎつつ、湾曲したケースミドル、スクエアなベゼル、ラウンドのサファイアクリスタルという3つの形状言語を一体に成形した点に、ハーモニー特有の設計思想がある。ラグはケースバンドと連続的に立ち上がり、明確な接合線を持たない。竜頭は3時位置に置かれ、フルート加工と共にモノプッシャーを内蔵する。クロノグラフ操作のスタート・ストップ・リセットはすべてこの竜頭中央のボタンで行う。
文字盤は銀色のオパリン仕上げ。アラビア数字は青で塗装され、フランジには赤の脈拍計目盛りが刻まれる。これは30拍ぶんの計測を起点とする医療用スケールで、1928年原型を踏襲した意匠である。サブダイヤルは9時にスモールセコンド、3時に45分積算計、6時にパワーリザーブ表示を配する3点配置。一般的なクロノグラフが30分積算計を採るのに対し、45分カウンターを採用した点は本機の特徴のひとつである。中央のクロノグラフ秒針と3時の積算針、6時のパワーリザーブ針はいずれもブルースチール仕上げで、時分針のローズゴールド・ポリッシュと色面の対比をなす。
ムーブメントは新規開発の自社製Cal.3300。設計開始は2008年で、ハーモニー発表までに約7年を要した。コラムホイールはマルタ十字を模した4本柱の構造を持ち、水平クラッチと組み合わされる。Cal.3300、3400、3500の3シリーズすべてに展開された、ヴァシュロン・コンスタンタンの新世代クロノグラフ・アーキテクチャの起点である。作動時の中央秒針の跳ねを抑える「フリクション技術」が織り込まれている点も同世代に共通する。
裏蓋のサファイアクリスタル越しに見えるバランスコックには、260周年記念として手彫りの「フルリザンヌ」装飾が施される。これは1755年銘の同社所蔵懐中時計の唐草文様を起点に、260周年限定のRefのために起こされた彫装飾であり、後継のB124には引き継がれていない。ストラップはダークブラウンのミシシッピアリゲーター、バックルは18K 5Nピンクゴールドの3連フォールディングクラスプで、ハーフ・マルタ十字のシルエットに磨き上げられている。
系譜と歴史
Cal.3300の設計は2008年に開始され、その完成を待って2015年にハーモニー・コレクションが発表される。お披露目の場はSIHH 2015(2015年1月19日〜23日、ジュネーヴ)。本機5300S/000R-B055は、7本の限定Refからなる260周年記念コレクションの中位機種として、260本のみの個別番号入りで生産が計画された。ハルマーク・オブ・ジュネーヴ(ジュネーヴ・シール)認定を受ける。
出荷は同年中に開始され、260周年記念プレゼンテーション・ボックスに拡大ルーペ、ハーモニー・コレクション解説冊子、当時のCEOファン=カルロス・トーレス署名入りの記念書簡を同梱する仕様で納品された。バランスコックの「フルリザンヌ」装飾は260周年限定のRefにのみ施され、本機もそのひとつである。
2016年10月、ヴァシュロン・コンスタンタンは10本の新Refを発表してハーモニーを通常コレクション化する。後継となる5300S/000R-B124はこのとき公表され、ケース・キャリバーを共通としつつ、文字盤のアラビア数字色は青からアンスラサイトに、ミニッツトラックはレールウェイ式に、バランスコックの彫装飾も標準仕様に改められた。これにより本機は「260周年限定の姿」のまま生産を終え、現在に至っている。