03 — EDITORIAL
系譜と歴史
Genealogy & history
1. 開発の背景
スピードマスターの原点は、1957年のRef. CK2915にある。搭載されたのは手巻きのCal. 321で、コラムホイール式のクロノグラフだった。この初代の意匠を現代に引き写したのが、2013年のスピードマスター '57である。ただし当時の心臓部は、2011年に登場した自動巻きのCal. 9300であった。
2016年、オメガはCal. 9300の脱進機まわりに非磁性素材を導入し、METAS認定に対応したCal. 9900を投入する。以後、上位クロノグラフは順次この世代へ移行したが、'57には9300系の構成が残されていた。自動巻き機構を積む以上、ケースの厚みにも一定の制約がかかっていた。
2. 手巻き化という設計判断
転機は2021年のスピードマスター クロノスコープである。オメガはここで、Cal. 9900からローターと切換車を除いた手巻きのCal. 9908を発表した。クロノグラフの構造はそのままに、自動巻きモジュールだけを外すという手法である。専門誌の計測では、これにより厚みはおよそ1.2mm減じたとされる。
Cal. 9906は、この9908に日付機構を加えた仕様である。2022年3月、スピードマスター誕生65周年の年に、新しい'57の8モデルとともに発表された。ケースは直径40.5mm、厚さ12.99mmへと縮小され、Cal. 3861を積むムーンウォッチ(13.58mm)より薄い仕上がりとなった。1957年の初代と同じく手巻きに回帰したことは、意匠の復刻にとどまらない整合性を'57に与えている。
3. 派生・展開
系譜を整理すると、自動巻きのCal. 9300(2011年)を起点に、耐磁化したCal. 9900(2016年)、その手巻き版でノンデイトのCal. 9908(2021年)、日付付きのCal. 9906(2022年)と続く。9906と9908は輪列と調速系を共有しており、違いは日付表示の有無に集約される。搭載モデルはスピードマスター '57の現行シリーズに限られ、同シリーズを特徴づける専用機となっている。
4. 業界での位置
オメガの手巻きクロノグラフには、現在二つの系譜が並存する。ひとつはCal. 321から861、1861を経てCal. 3861へ至るムーンウォッチの系統で、歴史的な構成を継承しながら現代の認定基準へ適合させてきた。もうひとつが9906と9908で、現代の自動巻きクロノグラフの設計を手巻きへ移し替えたものである。前者が伝統的な構造の延長線上にあるのに対し、後者は最新世代の設計から出発して手巻きの薄さと巻き上げの感触を取り込んだ。両者の差は優劣ではなく、どこを出発点とするかという設計思想の違いとして理解できる。
05 — MECHANISM
技術解説
Technical breakdown
動力系:直列の2つの香箱
Cal. 9906は2つの香箱(ゼンマイを収める円筒状の部品)を直列に連結している。並列配置がトルクを増やす方向に働くのに対し、直列配置は実質的にゼンマイを長くする効果を持つ。これにより、トルクの変動を抑えながら60時間のパワーリザーブを確保している。兄弟機のCal. 9908では香箱内壁にDLC(ダイヤモンドライクカーボン)コーティングが施されており、9906も同様の仕様とされる。巻き上げはリュウズのみで行い、ローターを持たない。
調速系:コーアクシャル脱進機とSi14
脱進機(テンプへ動力を小刻みに伝える機構)には、英国の時計師ジョージ・ダニエルズが考案したコーアクシャル・エスケープメント(Co-Axial Escapement)を採用する。従来のレバー脱進機が爪石とガンギ車の間で滑り摩擦を生むのに対し、コーアクシャルは衝撃を主に押し出す方向で伝え、摩擦を減らす。潤滑への依存が小さくなるため、長期的な精度の維持と整備間隔の延長につながる。オメガの仕様では3レベル構成のコーアクシャルとされる。
テンプは緩急針を持たないフリースプラング式で、テンワに設けた調整機構で慣性モーメントを直接調整する。ヒゲゼンマイ(テンプの往復運動を生むバネ)はシリコン製の「Si14」である。振動数28,800vph (4Hz)は毎秒8振動を意味し、クロノグラフ秒針は1/8秒刻みで動く。耐震装置にはニヴァショック(NIVACHOC)を備える。
クロノグラフ機構
クロノグラフの発停はコラムホイール(円柱状の歯車)が司る。スタート、ストップ、リセットの各動作を一つの部品が順序立てて制御するため、プッシャーの操作感が安定する。動力の伝達には垂直クラッチを用いる。摩擦板の圧着で連結する方式で、歯車同士を噛み合わせる水平クラッチに比べ、始動時の秒針の跳ねが起きにくい。表示は中央にクロノグラフ秒針、3時位置の同軸サブダイヤルに60分積算計と12時間積算計を重ね、9時位置にスモールセコンド、6時位置に日付を置く。
時針単独調整機能
オメガが「タイムゾーン機能」と呼ぶ機構を備える。分針を止めずに時針だけを1時間単位で進退させられるもので、日付も時針に連動して前後するとされる。
耐磁性と認定
脱進機まわりに非磁性素材を用い、Si14と組み合わせることで15,000ガウス(1.5テスラ)の耐磁性を実現した。ムーブメントは第三者機関でISO 3159準拠のクロノメーター検定を受けたのち、ケーシング後にMETAS(スイス連邦計量・認定局)の8項目の試験に臨む。日差0〜+5秒という基準を満たした個体が、マスタークロノメーターとして認定される。
仕上げ
裏蓋から見えるのは、手巻き化に伴って生まれた大きな3/4プレートである。ロジウムメッキの表面には「アラベスク状のジュネーブ・ウェーブ」が施され、縞模様はテンプを中心に放射状に広がる。ムーブメント中心ではなくテンプを起点とする装飾は、9908でオメガとして初めて採用されたと伝わる。ネジ、香箱、テンワはブラック仕上げとされる。