物語
ピカデリーの修復台から
ピーター・ネヴィル・スピークは、1968年にイングランドのエセックスで生まれた。ロンドンのハックニー工科大学で時計製作を学び、スイスの時計学校ウォステップ(WOSTEP)で研鑽を積む。英国に戻ってからは、ピカデリーの古美術商ソムロで古典時計の修復部門を任され、7年にわたって過去の名工の仕事に触れた。1996年、複雑機構の開発を担うルノー&パピ(現オーデマ・ピゲ・ルノー&パピ)に招かれ、再びスイスへ渡る。結婚を機に妻の姓マリンを加え、ピーター・スピーク・マリンと名乗るようになった。
最初の作品ファウンデーション・ウォッチは、ルノー&パピ在籍中に余暇を使って作られた。二つの香箱を備えたトゥールビヨン懐中時計であり、独立時計師アカデミー(AHCI)への加入を後押しした一本でもある。トゥールビヨン受けに用いられた、歯車整形工具を象った意匠は、以後ブランドの象徴となっていく。2002年に会社を設立し、翌2003年には最初の腕時計を発表する。修復師として過ごしたピカデリーの日々にちなみ、そのケースはピカデリーと名づけられた。
独立時計師としての模索
創業から数年、スピーク・マリンの腕時計は、汎用機を大幅に改造したムーブメントを積んでいた。ETA(エタ)系のベースに、トッピングツール型のローターや独自の受けを組み込んだFW2012が、その代表である。スピーク・マリンは並行して他社の仕事も手がけた。マキシミリアン・ブッサーによるMB&Fの始動に関わり、ハリー・ウィンストンのエクセンター・トゥールビヨンを手がけた。メートル・デュ・タンのチャプター・ワンの開発にも参加している。
2008年、彼は自らのブランドに専念する道を選ぶ。2009年には初の自社ムーブメントSM2を発表した。仕上げと構造の水準は高かったが、その価値は一般の愛好家には伝わりにくく、価格も高かった。2007年から2008年の金融危機による高級時計需要の落ち込みも重なり、販売は容易でなかったと伝わる。独立時計師の多くが直面した、時代の逆風であった。
経営者の交代と製造哲学の転換
2012年、ブランドの経営権はフランス人実業家クリステル・ロノブレへ移った。時計業界の外から来た新しい経営者は、二つの柱を据える。自社でのムーブメント製造と、創業以来の意匠を保ちながらの現代化である。2014年、彼女はヌーシャテル地方の小さなムーブメント開発工房ル・セルクル・デ・ゾルロジェに出資した。時計設計家エリック・ジルーを迎え、ブランドの視覚的な刷新にも着手する。
このとき生まれた自社ムーブメント群は、スモールセコンドを1時半に配する独特の構成を持つ。技術者からは前例のなさを指摘されたが、ロノブレはこの配置を押し通したと伝わる。2017年、創業者ピーター・スピーク・マリンはブランドを離れ、教育と情報発信の場ザ・ネイキッド・ウォッチメーカーに専念する道を選んだ。創業者の名を冠したまま、ブランドは新たな体制で歩むことになる。
マニュファクチュールへの脱皮
2015年に始まった内製化の方針は、SMAと名づけられたムーブメント群として結実していく。2020年、ロノブレはル・セルクル・デ・ゾルロジェの筆頭株主となり、ムーブメントの開発から組み立て、調整までを自社の管理下に置く体制を整えた。SMA01に始まる一連のキャリバーは、トゥールビヨンやデュアルタイムへと派生し、ブランドを汎用機の使い手から自社製造ブランドへと変えていった。
リップルズと新しい読者
2022年、同社はピカデリー型ケースから離れた新シリーズ、リップルズを発表する。ロンドンのシティを意匠の源とし、角を丸めた四角いケースと波形の文字盤を持つスポーツウォッチである。これを境に顧客層は若がえり、女性の比率も増したと伝わる。2024年には厚さ3.25ミリの極薄スケルトン・キャリバーSMA07を投入し、リップルズ・スケルトンに搭載した。年産はおよそ600から700本。少数生産を保ちながら、自社製造の独立ブランドとしての性格を固めつつある。