物語
01革と時の出会い(1837〜1928)
1837年、ティエリー・エルメスがパリのマドレーヌ広場近くに開いた工房は、貴族や軍向けの馬具を製作する事業であった。時計は事業領域に含まれていない。
転機は1912年、創業者の孫エミール=モーリス・エルメスが当時9歳の娘ジャクリーヌのために、懐中時計を腕に固定する革製のポルト・ニョン(porte-oignon)を製作したことに始まる。馬上で時計を確認しやすくするための実用的工夫であったが、結果として腕に時計を着ける文化を、革と馬具の家が独自に発見した瞬間でもあった。
メゾンの名を最初に冠した時計は1928年、フォーブール・サントノレ24番地の本店で発売された「Ermeto(エルメト)」である。スイスのムバードと共同開発した懐中時計で、革製の外装を引き開けるとリュウズが連動して自動巻きされる機構を持つ。同型は翌1929年のバルセロナ万国博覧会でグランプリを獲得したと伝わる。
02スイスの名門との協業時代(1930s〜1970s)
20世紀半ばのエルメスは、自前のムーブメント製造を持たず、スイス名門との協業によって時計を供給した。ジャガー・ルクルト、ユニバーサル・ジュネーヴ、ヴァシュロン・コンスタンタン、オーデマ・ピゲ、ユリス・ナルダンらのキャリバーが、エルメス銘の文字盤の裏で時を刻んだ、いわゆるダブルサインの時代である。
当時の主力は革ベルトと一体化した装身具的な腕時計であった。実用時計のメーカーというよりは、革製品の延長線上に時計を提供する家、というのが当時の立ち位置であった。
03La Montre Hermès の設立とアルソー(1978〜1990s)
1978年、当主ジャン=ルイ・デュマがメゾンを率いる時代に、エルメスはスイス・ビエンヌ近郊ブリュッグに専門子会社 La Montre Hermès を設立した。同年発表された「Arceau(アルソー)」は、メゾンのデザイナーであるアンリ・ドリニーが手がけた最初の腕時計である。鐙(あぶみ)に着想した非対称のラグが特徴で、文字盤には傾いたアラビア数字が並ぶ。
続く1991年、同じくアンリ・ドリニーが「Cape Cod(ケープコッド)」を発表する。長方形ケースの内部に正方形を抱く反転的構造で、錨の鎖を写したメゾンの図案「シェーヌ・ダンクル」を時計に翻訳した造形である。1998年にはマルタン・マルジェラがダブルトゥール・ストラップをデザインし、革の工芸性と時計の機能美が結びついた。1996年には頭文字Hを正方形ケースとして立体化した「Heure H」も加わる。
04工芸の家から時計のメゾンへ(2000s〜2010s前半)
21世紀に入ると、エルメスは時計事業を「装身具のひとつ」から「独立した工芸領域」へと位置づけ直す。鍵となったのは2006年のヴォーシェ・マニュファクチュール・フルリエへの25パーセント出資であった。ヴォーシェはパルミジャーニ・フルリエ系列の高級ムーブメント製造者であり、サンド・ファミリー財団が大株主である。エルメスはこの出資で2,500万スイスフランを投じたと伝わる。
同年、ブリュッグの本拠にレザーストラップ製造部門を統合し、革と機構を同じ屋根の下に置く体制を整えた。さらに2012年に文字盤製造のナテベール、2013年にケース製造のジョセフ・エラールを傘下に収め、垂直統合の主要部品メーカーを揃えていく。
05自社キャリバーと垂直統合の完成(2010s)
2012年、エルメスはヴォーシェとの共同開発により、創業年にちなんだ自社キャリバー H1837 と、女性向けの小型版 H1912 を発表する。直径26.2ミリ、厚さ3.7ミリ、毎時28,800振動(4Hz)、ダブルバレルで50時間のパワーリザーブを備えた基幹自動巻きである。
2011年に発表された「Arceau Le Temps Suspendu」は、ケース側面のプッシャーを押すことで時針と分針を12時付近に退避させ、時刻表示そのものを中断する独自の複雑機構を備えていた。アジュノール社が機構を設計した。同作はGPHG メンズウォッチ部門を獲得し、メゾンに時計界での真の認知をもたらした。
2015年には Slim d'Hermès が登場する。ヴォーシェとの共同開発による超薄型マイクロローター式 H1950 を搭載し、文字盤の数字は元ルーヴル美術館アート・ディレクターのフィリップ・アペロワが専用にデザインした。同じ2015年、エルメスはアップルとの初の協業として Apple Watch Hermès を発表する。フランスの自社工房で手作業によるレザーストラップを供給し、Cape Cod や Espace の文字盤デザインを電子時計に翻案した。
2017年、取得した2社の工房をル・ノワルモンに集め、Les Ateliers d'Hermès Horloger とした。文字盤とケースの製造が、ひとつの拠点に集約された。
06時を遊ぶ姿勢の現在(2020s)
2021年、エルメスは男性向けカジュアル時計の不在を埋める H08 を発表する。クッション型39ミリケースにチタンやグラフェンを含む複合素材を用い、自社の H1837 を搭載した。
続く2024年には女性向けの新コレクション Hermès Cut を投入。36ミリの円形ケースに H1912 を搭載し、女性向けの新しい柱に自社ムーブメントを据えた。2025年には Arceau Le Temps Suspendu がオープンワーク文字盤と42ミリへのサイズダウンとともに再登場し、14年前に提示した「時を止める」という発想を現代の文体で語り直している。
創業から2世紀近く、La Montre Hermès 設立から半世紀近くを経て、エルメスの時計は革製品の延長から完全に独立した工芸領域へと至っている。