物語
01銀の枯れた町に時計職人が来た
1845年、ドレスデンの南方に位置する小さな町グラスヒュッテは、銀鉱の枯渇により職を失った住民を抱えて沈滞していた。宮廷時計師の見習いを終えたフェルディナント・アドルフ・ランゲは、この町に時計産業を根づかせる構想をザクセン王立政府に提案。融資を取り付け、地元の藁編み職人や元鉱夫を時計職人として訓練し始めた。やがてユリウス・アスマン、モリッツ・グロスマン、アドルフ・シュナイダーらが続き、エルツ山地の谷あいに時計製造の集積地が形成されていく。
ランゲらはスイスのエタブリスマージュ方式とは異なる道を選んだ。専門工房を町に集積させ、部品ごとに分業しながらも、すべてをグラスヒュッテ域内で完結させる仕組みを築いたのである。1878年にはドイツ時計学校グラスヒュッテ校が開校し、技術と職人を体系的に育てる装置が整う。19世紀後半、グラスヒュッテの懐中時計は精度と仕上げの両面で国際的な評価を得るようになった。
02ヘルヴィッヒの渦と二度の戦争
20世紀初頭、ドイツ時計学校で教壇に立ったアルフレート・ヘルヴィッヒは、1920年にフライング・トゥールビヨンを考案した。トゥールビヨン・ケージを下側のみで支えるこの構造は、上部の橋を排して機構を視覚的に解放した。ヘルヴィッヒは41年にわたり同校に関わり、800名を超える時計師を育てた。
しかし時代は時計産業に厳しく作用した。第一次大戦後の経済混乱、戦間期の苦境を経て、第二次大戦末期の1945年5月8日、グラスヒュッテはソ連軍の空襲に晒され、市街の大半を失う。戦後、町はソ連占領地区に組み込まれ、1945年8月にはソ連占領当局が生産設備の解体と搬出を命じた。国有化はランゲ&ゾーネが1948年、ウーロファとウーファークが1951年に及んでいる。
03国営時代の継承
1951年7月1日、ウーロファ、ウーファーク、ランゲ、ファイテヒニーク、メステヒニーク、エストラー、リヴォス、そしてグラスヒュッテ時計学校を含む残存企業群が統合され、国営企業VEBグラスヒュッター・ウーレンベトリーベ(GUB)が誕生した。市場経済から切り離された環境下でも、GUBは技術伝統の継承装置として機能した。
1964年に登場した自動巻き「シュペツィマティック」は東ドイツ最大のヒット作となり、累計370万本以上を生産したと伝わる。1969年にはダイバーズ「シュペツィマティック・タイプRP TS 200」を投入。GDR人民海軍向けに開発されたこのモデルは、後年「SeaQ」シリーズの原型となる。一方で、計画経済下では西側のような複雑機構の本格的な追求には限界があり、GUBの実力は世界市場で十分には知られなかった。
04民営化からマニュファクチュールへ
1990年10月16日、GUBはグラスヒュッター・ウーレンベトリープ有限会社として商業登記された。だが従業員は72名まで減少しており、再生の道のりは険しかった。1994年、企業家ハインツ・W・ファイファーが買収を完了し、社名を「グラスヒュッテ・オリジナル」に改める。この呼称は、20世紀前半に他地域の偽造品と区別するため文字盤に記されていた品質保証銘に由来するものである。
1997年、復活ラインの最上位として「ユリウス・アスマン ドレーガングウーア」を発表。Cal. 51-55のトゥールビヨンを裏側に据え、腕時計としても懐中時計としても携えられる構成を採った。1990年代には、フライング・トゥールビヨンの考案者の名を冠した腕時計も発表したとされる。1997年にはパノラマデイトを導入し、以後これがブランドの視覚的署名となる。
05スウォッチグループ傘下での成熟
2000年、ニコラス・G・ハイエック率いるスウォッチグループがグラスヒュッテ・オリジナルを買収。流通網と研究開発の支えを得たブランドは、機械式時計復興の波に乗って国際的に認知されていく。2002年8月、ミューグリッツ川の歴史的氾濫で工場は浸水被害を受けたが、修復のうえ建屋を全面更新。23メートルの吹き抜けを持つ現在の本社棟は、この再建の産物である。
2006年にスウォッチが取得したプフォルツハイムの文字盤工房Th. Müllerは、2013年にブランド専属のディアル・マニュファクチュールとして再編された。2018年7月にはローラント・フォン・カイトがCEOに就任し、2019年にダイバーズ「SeaQ」コレクションを投入してスポーツ路線を強化している。
2025年、文字盤工房のグラスヒュッテ本拠地への移転が完了し、設計から組立、文字盤までを一拠点に統合する垂直構造が結実した。創業180周年にあたるこの節目は、当ブランドが歩んできた断絶と継承の双方を映し出している。