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PERSON · 1913–1979

ウィリー・ブライトリング

Willy Breitling
経営者

ナビタイマーとクロノマットを送り出し、47年にわたり家業を率いたブライトリング三代目当主(1913-1979)

01 — 概要 / OVERVIEW

ウィリー・ブライトリング(Willy Breitling、1913-1979)は、スイスの時計会社ブライトリングを三代目当主として率いた経営者である。1927年に父ガストンを失い、19歳で経営を引き継いだ。以後47年にわたり指揮を執り、二プッシャー式クロノグラフ、回転計算尺を備えたクロノマット、そして1952年に構想したナビタイマーを送り出す。航空計器部門HUITの創設や、自動巻クロノグラフ キャリバー11の共同開発にも関与した。クォーツ化の波を受け、1979年4月に商標をエルネスト・シュナイダーへ譲渡し、その翌月に没している。クロノグラフという一分野に半世紀近く賭け続けた経営者である。

02 — Life

生涯

A life in time

1. 13歳の相続人

ウィリー・ブライトリング(Willy Breitling)は1913年に生まれた。祖父レオン・ブライトリング(Léon Breitling)が1884年にサンティミエで創業し、父ガストン(Gaston Breitling)が1914年から率いた時計会社が家業だった。

1927年7月、ガストンが43歳で没する。ウィリーはまだ学齢期の13歳だった。会社は株式会社の形をとり、母ベルトを含む取締役会と雇われの支配人が実務を担う。ブランドの公式史家フレッド・マンデルバウム(Fred Mandelbaum)によれば、家族の記録上、ウィリーが家業を継ぐことに迷いはなかったという。当時のスイスには20歳未満の者は会社の支配人になれないという規定があり、ウィリーは19歳で社内の実権を握り、20歳の誕生日に正式に登記されたと伝えられる。帳簿を洗い直して前任の支配人を退けたという逸話も残る。経営掌握の年は1932年とも1933年とも記され、資料により揺れがある。

2. 中立国から英国へ

1937年、英国の陸軍省がコクピット用時計の設計をウィリーに打診した。翌1938年、彼は航空計器の専門部門HUITアビエーションを社内に置く。1939年には英空軍向け搭載クロノグラフの発注を受けた。

スイスは中立国であり、大戦下の欧州では枢軸国の勢力圏に囲まれていた。製品をフランス経由で英国へ届ける作業は公にできる性質のものではなく、公式史はこれを秘密裏の輸送と記す。供給先を連合国側に定めた判断は、会社の立場を危うくしうるものだった。戦火のさなかにあっても、ウィリーは終戦後の民生市場を想定した商品構成の準備を進めている。

3. 拡張と業界での立場

戦後、製品は民間航空と一般市場の双方へ広がった。1950年代に潜水がブームとなるとクロノグラフの需要は落ち込む。この時期ウィリーはクロノグラフ製造業者の団体を率い、需要を取り戻すための市場調査と戦略文書をまとめたとマンデルバウムは述べている。1960年代のスポーツクロノグラフの隆盛は、その延長線上にあったという見方である。1957年のスーパーオーシャン投入、1962年の宇宙飛行への供給、1969年のキャリバー11発表と、在任期間は47年に及んだ。

4. 幕引き

1970年代、クォーツ化が機械式クロノグラフの市場を急速に侵食する。合併やグループ入りで嵐をしのぐ同業が相次ぐなか、ウィリーは独立を保てる後継者を探したと公式史は記す。健康は衰えており、子どもたちは家業を継がなかった。1978年、ラ・ショー=ド=フォンの工場は操業を止め、従業員は解雇された。1979年4月5日、シクラを率いていたエルネスト・シュナイダー(Ernest Schneider)と、ブライトリングおよびナビタイマーの商標に関する契約を交わす。その翌月、ウィリーは世を去った。

03 — Work

業績・代表作

What this person built

1. 操作系を定めた二つのプッシャー

1915年、父ガストンは2時位置に独立プッシャーを備えた腕クロノグラフを世に出していた。起動も停止もリセットもリューズで行っていた時代に、操作を外へ引き出した設計である。ウィリーはここに二つ目のボタンを加えた。1933年に出願され翌1934年の製品に載った4時位置のプッシャーが、リセットを起動・停止から切り離す。連続する計測を積み上げられるようになり、この配置は業界の標準となった。今日の二プッシャー式クロノグラフの操作系は、この時点でほぼ確定している。

2. 計算尺を腕に載せる

1941年、ブライトリングは円形計算尺の特許を得る。翌1942年のクロノマット(Chronomat)は、回転ベゼルの目盛で乗除算や単位換算を扱えるようにした腕時計だった。1952年、操縦士団体AOPA(Aircraft Owners and Pilots Association)から会員向けクロノグラフを求められたウィリーは、この計算尺を航空計算向けに組み替える。平均速度、飛行距離、燃料消費、上昇下降率を腕の上で算出する器具──ナビタイマー(Navitimer)である。1954年にAOPA向けの供給が始まり、初期の個体は文字盤に自社名を持たなかった。自社銘での一般販売は1956年前後とされる。1962年には宇宙飛行士スコット・カーペンター(Scott Carpenter)の依頼で24時間表示の一本を仕立て、2か月足らずで納めた。着水時の海水で損傷したこの時計に、ウィリーは代替品を送っている。

3. 商品戦略という発明

彼の仕事は機構にとどまらない。1935年の取材で、ウィリーはコダックのブローニーを引き合いに出している。誰でも扱える標準化された製品を、明確な外観と価格帯で並べるという発想である。入門帯の量販ラインと、ブランドを規定する上位ラインを分ける構成がここから生まれた。1940年代には各系列に固有の名を与える。クロノマットに続き、デュオグラフ、ダトラ、プレミエが1943年から44年にかけて出そろった。プレミエ(Premier)は「最初」ではなく、プルミエ・クリュのような「最上」の意で選ばれたとマンデルバウムは説明する。戦時下にハリウッドのパラマウントと契約し、俳優を起用した広告を打ったのも同じ時期にあたる。1964年のトップタイムについては、若く活動的な層に向けた製品だと本人が語っている。

4. HUITとキャリバー11

HUITアビエーションの名は、搭載時計が備えた8日巻の動力持続時間に由来する。この部門は搭載計器と操縦士用腕時計の双方を扱い、社内試験の体系を築いた。公式資料は、調速の検査装置、-40度から100度に及ぶ温度試験、振動台を備えた実験室を挙げている。計器としての信頼性を社内規格として数値化する試みだった。1966年2月には、デプラ社(Dépraz & Co.)、ホイヤー・レオニダス、自社の三者が協定を結ぶ。ビューレンのマイクロローター機にクロノグラフモジュールを重ねる構想で、開発は「プロジェクト99」と呼ばれた。1969年3月3日、キャリバー11はジュネーブとニューヨークなどで同時に発表される。同年にはゼニスとセイコーも自動巻クロノグラフを出しており、「世界初」の先後は現在も定説を見ない。

04 — Legacy

評価・後世への影響

What remains

商標が家を離れたことで、ブライトリングの歴史はしばらく語り手を失った。シュナイダー体制はクォーツ製品と1984年のクロノマットで再建を果たしたが、創業家との接点は薄かった。マンデルバウムは、ウィリーの息子グレゴリーがジュネーブで時計・宝飾の仕事に就いていたにもかかわらず、長く会社からの連絡がなかったと語っている。参照すべき記録が共有されないあいだに、ヴィンテージ市場ではプレミエの偽物が大量に出回った。

再評価が進むのは2010年代後半である。2018年、HUITにちなむナビタイマー8が発表され、同じ年にプレミエが現行コレクションへ戻った。マンデルバウムは公式史家として迎えられ、2023年には『Premier Story』を刊行している。2022年5月24日には、飛行から60年を経たカーペンターのコスモノートが公開の場に出された。海水に侵された実物が人前に置かれるのは1962年以来のことで、その席にはウィリーの息子の姿があった。

今日の評価は、彼を家業の相続人としてよりも、製品戦略の設計者として見る方向に傾いている。機構の特許、価格帯の設計、系列名の付与、広告の起用先までを一つの構想として動かした点が、同時代の経営者のなかで際立つためである。クロノグラフという単一の分野に半世紀近く賭け続けた判断は、結果としてブランドの輪郭そのものになった。

05 — Works

この人物が関わったモデル