ルイ・カルティエ
カルティエ三兄弟の長兄。宝飾店の意匠感覚を時計に持ち込み、サントスとタンクという腕時計の原型を残した
ルイ・カルティエ(Louis Cartier、1875-1942)は、パリの宝飾店カルティエを率いた経営者であり意匠家である。創業者ルイ=フランソワ・カルティエの孫にあたり、弟のピエール、ジャックとともに、パリ・ニューヨーク・ロンドンに拠点を築いた。1904年頃、飛行家アルベルト・サントス=デュモンのために腕に着ける時計を考案したとされ、これは1911年に市販へ移された。1917年には第一次世界大戦の戦車から着想した矩形の時計を構想し、1919年末に最初の6本が売られている。時計師エドモン・ジャガーとの独占供給契約を通じて、宝飾店が自ら時計の形を決める体制を築いた点でも、20世紀初頭の腕時計史に位置を占める。
生涯
1. 一族と家業
ルイ・ジョゼフ・カルティエ(Louis Joseph Cartier)は、1875年6月6日にパリで生まれた。父はアルフレッド・カルティエ、祖父は1847年にパリで宝飾工房を引き継いだルイ=フランソワ・カルティエである。家業は19世紀後半に王侯貴族を顧客とする宝飾店として地歩を固めており、ルイは三代目にあたる。
1898年、ルイは家業に加わる。翌1899年、店はパリのラ・ペ通り13番地へ移った。この移転は、オペラ座に近い高級商業地区の中心へ拠点を置くという判断であり、以後の顧客層を決定づけた。同じ年、ルイはシャルル・フレデリック・ウォルトの孫にあたるアンドレ=カロリーヌと結婚している。この婚姻は、当時の服飾界との結びつきをカルティエにもたらした。
2. 三兄弟による分業
アルフレッドには三人の息子がいた。長兄のルイがパリを、次弟ピエールがニューヨークを、末弟ジャックがロンドンを担当するという分業が20世紀初頭に定まる。ジャックは1902年にロンドンへ渡り、ピエールは1909年にニューヨークへ本格的に軸足を移した。三都市に同時に店を構える体制は、当時の宝飾店としては先行的なものだった。
ルイは経営と意匠の双方を担ったが、比重は意匠の側にあった。1904年には英国王エドワード7世から御用達を受け、宝飾店としての格が公的に認められている。石の切り方や台座の設計に加え、白金を多用して線を細く見せる手法を進めた点が、同時代の宝飾意匠のなかでカルティエを際立たせた。
才能を外部から集める手つきも、ルイの経営の特徴だった。意匠ではシャルル・ジャコー、時計と置時計ではモーリス・クエ、ムーブメントではエドモン・ジャガーというように、専門を持つ人材に領域を委ねたうえで、全体の方向を自ら決めている。
3. 晩年
私生活では1909年に最初の妻と離婚し、1924年にハンガリー貴族の出であるジャクリーヌ・アルマーシーと再婚した。イスラム圏の細密画や工芸品の収集家としても知られ、その収集がタンクをはじめとする意匠にも影響したと論じられる。
1932年に経営の一線から退き、第二次世界大戦下はニューヨークで過ごした。1942年7月23日、ニューヨークで没する。67歳だった。遺体はフランスへ運ばれ、ヴェルサイユ近郊のゴナール墓地に葬られている。同じ1942年には末弟ジャックも世を去り、一族による経営は急速に細っていった。
業績・代表作
1. サントス — 腕に着ける時計という形式
ルイ・カルティエの業績のうち最も広く知られるのが、腕時計を男性の道具として成立させたことである。1904年頃、飛行家アルベルト・サントス=デュモンが操縦中に懐中時計を扱いにくいと漏らしたことを受け、ルイが腕に着ける角型の時計を考案したと伝えられる。考案の年については1904年と1906年の両説があり、市販に移されたのは1911年とされる。
当時、腕時計は女性の装身具と見なされていた。その前提のなかで、視認性と装着性を理由に男性向けの腕時計を設計した点に、この一作の位置づけがある。露出したビス頭を意匠として見せる角型ベゼルは、後年のサントスにも引き継がれた。
2. タンク — 矩形という解答
1917年、ルイは第一次世界大戦の戦車を上から見た形から着想し、矩形の時計を構想する。ケース側面の縦の帯(ブランカール)を履帯に、その間に収まる文字盤を車体に見立てた構成である。1918年に米軍のジョン・パーシング将軍へ試作が贈られたと伝えられ、一般に売られたのは1919年末で、手作業のため最初の生産は6本にとどまった。
以後、1921年のタンク サントレ、1922年のタンク シノワなど派生が続き、矩形ケースは丸型が支配的だった腕時計の意匠に、もう一つの基準を与えた。現行のタンク ルイ カルティエは、この系譜を名として引き継いでいる。
3. エドモン・ジャガーとの協業
宝飾店であるカルティエは、自社にムーブメント製造の技術を持たなかった。そのためルイは1907年、パリの時計師エドモン・ジャガーと独占供給契約を結ぶ。契約年数は資料により14年とも15年とも記される。ジャガーが設計した薄型ムーブメントはスイスのルクルト社が製造し、カルティエが意匠と販売を担った。
1919年前後には両者の共同でヨーロピアン・ウォッチ&クロック社が設けられ、初期のタンクやサントスの多くはこの体制のもとで供給されている。意匠を持つ宝飾店と機構を持つ時計師が役割を分けるという形は、その後の時計産業でも繰り返し現れた。革帯を留めるドゥプロイアント式バックルも、ジャガーが1910年前後に取得した特許を契約によってカルティエが独占的に用いたものである。
4. ミステリークロック
腕時計と並ぶもう一つの仕事が、置時計である。ルイは若い時計師モーリス・クエを迎え、1912年に最初のミステリークロック(モデルA)を世に出した。水晶の文字盤のなかで針が宙に浮いて回るように見えるこの構成は、歯を刻んだ透明な円板を台座に隠した機構が駆動している。手品師ロベール=ウーダンの仕掛け時計に着想を得たとされ、以後1940年代まで派生形がつくられた。
評価・後世への影響
没後の評価と影響
ルイの死後、カルティエは一族の手を離れていく。1960年代にかけてパリ・ロンドン・ニューヨークの各社は別々の投資家へ売却され、三都市に分かれた社名が再び一つの体制へ束ねられるのは1970年代を待つことになった。この間、カルティエの名は残っても、意匠を統括する主は不在だった。
経営の連続性が断たれた一方で、意匠は残った。サントスとタンクは断続的に生産が続き、1970年代以降は「レ マスト ドゥ カルティエ」を通じて広い層へ届く。現行のサントス、タンク、そしてタンクから派生した各種の角型モデルは、いずれもルイの在世中に定まった輪郭を出発点としている。
腕時計史における位置づけは、機構の発明者としてのそれではない。懐中時計の縮小ではない形を腕時計に与え、男性が腕に時計を着けるという習慣が広がる前段を用意した点にある。第一次世界大戦が男性の腕時計受容を決定づけたとすれば、その形式はすでに戦前に示されていた。
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