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PERSON · 1858–1922

エドモン・ジャガー

Edmond Jaeger
創業者 時計職人

超薄型ムーブメントを発明し、カルティエへ独占供給、ジャガー・ルクルト誕生の礎を築いた、パリの時計師(1858-1922)

01 — 概要 / OVERVIEW

エドモン・ジャガー(Edmond Jaeger、1858-1922)は、フランス・アルザス出身の時計師であり、パリを拠点とした発明家・実業家である。1880年にパリで工房を構え、フランス海軍に航海クロノメーターを納入する一方、超薄型ムーブメントの分野で時代を牽引した。1903年にスイスの製造業者へ超薄型ムーブメントの量産を呼びかけたことが、ジャック=ダヴィッド・ルクルトとの長期協業の起点となる。カルティエに対しては1907年から15年の独占供給契約を結び、サントスやタンクの心臓部を担った。1922年の没後15年を経た1937年、両家の遺志を継ぐ形でジャガー・ルクルトが正式に発足する。

02 — Life

生涯

A life in time

1. アルザスからパリへ

エドモン・ジャガー(Edmond Jaeger)は1858年、当時フランス領であったアルザスの職人の家系に生まれた。1870年から1871年の普仏戦争でアルザスがドイツに編入されると、一家はパリへ移住したと伝わる。少年時代から機械への適性を示し、パリで時計師としての修業を積んだとされる。初期キャリアの詳細には不明瞭な点が残るが、一時期パリの老舗ブレゲと接点を持った可能性も指摘されている。

1880年、ジャガーはパリで自らの工房を立ち上げた。フランス・オートロジュリ財団(FHH)はこの年を創業年として記録しているが、別の資料との整合は完全ではなく、実際の事業開始時期にはなお議論が残る。

2. 海軍御用達と発明家としての立場

1886年、共同経営者のピエール・ガブリエル(Pierre Gabriel)と連名で動力残量表示機構の特許を取得し、業界誌で取り上げられた。1890年にはフランス海軍にデッキ・クロノメーターを納入し、海軍御用時計師としての地位を確立する。タコメーター、シネモメーター、クロノグラフといった速度計測機器に注力し、パリの時計界で名を高めた。

二十世紀初頭、ジャガーは自ら設計した超薄型ムーブメントの量産先を求めてスイスへ目を向ける。1903年、ジャック=ダヴィッド・ルクルト(Jacques-David LeCoultre)と出会い、後に伝説となる協業が始まったと伝わる。同じ1903年、パリ宝飾時計組合(Chambre Syndicale de l'Horlogerie de Paris)にも加入している。

3. パリとヴァレ・ド・ジューを結ぶ

1907年、カルティエとの15年独占契約と、ルクルトとの共同による超薄型キャリバー145の完成が重なる。これ以降ジャガーは、パリの工房に加え、ルクルト社内に設けられた仕上げ部門、さらに1917年にはジュネーブにも自社を構えるに至る。第一次世界大戦下では航空・自動車計器の生産に力を注ぎ、市場の激変を乗り切った。1910年からはパリ宝飾時計組合の副会長を務め、十年以上にわたって業界の代表的存在のひとりとして遇された。

4. 晩年と死

1918年ごろから健康の悪化により事業の運営から徐々に退き、パリの工房の指揮はルクルト出身のジャック・ルベ(Jacques Lebet)へと委ねられた。1921年、組合副会長の任を病気のため辞し、同僚たちは敬意を表して名誉副会長に推した。1922年1月4日、ジャガーは逝去する。ジャガー・ルクルトの社名が正式に成立するのは、それから15年後の1937年のことである。

03 — Work

業績・代表作

What this person built

1. 超薄型ムーブメントとルクルトとの協業

1903年、ジャガーはスイスの製造業者に向けて、自ら設計した超薄型ムーブメントを量産できるかという挑戦状を投げかけた。これを受けて立ったのが、ヴァレ・ド・ジューのルクルト・エ・シー社で生産責任者を務めていたジャック=ダヴィッド・ルクルトである。両者の協業からは1907年に厚さ1.38mmのキャリバー145が誕生した。「クトー(ナイフ)」と渾名された懐中時計用ムーブメントで、当時としては世界最薄の部類に属する。この成功は、両家を二十世紀の超薄型製品開発の先頭に押し上げる契機となった。

ジャガーはスイスの製造力に依拠する一方、自身は意匠と仕様の発案者として振る舞った。設計図と要求仕様を提示し、ルクルトが量産技術で支える。パリの感覚とヴァレ・ド・ジューの精度を結ぶ役割を、ジャガーが個人として担った構図である。

2. カルティエへの独占供給

1907年、ジャガーはルイ・カルティエ(Louis Cartier)との間で15年間の独占契約を結ぶ。カルティエが採用するムーブメントを、ジャガーが供給する取り決めであった。1904年に試作された飛行家アルベルト・サントス=デュモンのための腕時計は、1911年に量産化される際、ジャガー設計のムーブメントを搭載している。1917年に登場したタンクも同様の流れに位置づけられる。

ジャガーは「ムーブメントをケース形状に合わせる」職人として知られた。ケースが角形でも円形でも、寸法に応じて設計を調整し、宝飾的な意匠の自由をカルティエに保証したのである。ジュエラーであるカルティエと、時計師であるジャガーの分業は、フランス腕時計史における代表的な協業のひとつと位置づけられている。

3. 航空・自動車計器への展開

第一次世界大戦の勃発で高級懐中時計の市場が縮小すると、ジャガーは事業を計器類へと拡げた。ルクルトとの協業に加え、フランス人航空技師ギュスターヴ・ドラージュ(Gustave Delage)、スイス人飛行家エドモン・オーデマール(Edmond Audemars)らと組み、タコメーター、高度計、ダッシュボードクロックを開発する。これらは連合国側の航空機に標準装備されるまでに普及した。戦後の1920年代には、自動車計器の分野でも「ジャガー」のブランドが定着していく。

時計から計器へという展開は、単なる多角化ではない。ジャガーの本領が「速度と時間を測る精密機構」全般にあったことを示している。

4. その他の発明と業界活動

1886年にはピエール・ガブリエルとの共同で動力残量表示機構の特許を取得。1909年に観音開きのDバックル(boucle déployante)の特許を出願し、翌1910年に成立、カルティエ製品で初めて採用された。さらに1910年から1921年までの十年以上にわたり、パリ宝飾時計組合の副会長として業界の取りまとめに関与している。

04 — Legacy

評価・後世への影響

What remains

ジャガー・ルクルトという成果

ジャガー逝去の1922年から1937年までの15年間、彼が築いたパリの会社とルクルトのスイス側組織は緩やかに統合を進めた。1937年、両社の名を冠したジャガー・ルクルトが正式に発足する。ジャガー自身が見届けることはなかったが、ブランド名に彼の姓が残されたことは、両者の協業がジャガー主導から始まったという歴史認識を反映している。

計器ブランドとしての残響

時計業の系譜と並行して、自動車・航空機向け計器のブランド「ジャガー」も独自の道を歩んだ。フランスでは戦間期から戦後にかけて、自動車のダッシュボードに刻まれた「Jaeger」のロゴが広く知られ、時計界の外にもその名を浸透させた。

媒介者としての歴史的位置

ジャガー個人については、その業績の大きさに比して伝記資料が限られている。1922年の追悼文では、組合員としての誠実さと謙抑な人柄が同僚から評価されていたことが伝えられている。後世の歴史家は、彼を「パリのジュエラーとヴァレ・ド・ジューの時計師を媒介し、二十世紀の高級腕時計の生産体制を準備した人物」として位置づけている。一人の発明家として以上に、業界のネットワークの結節点として、ジャガーの仕事は意味を持つのである。

05 — Works

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