ジャン=ジャック・フィヒテル
自ら海に潜り、自ら仕様を書いた経営者。1953年のフィフティ ファゾムスで近代ダイバーズの原型を定めた
生涯
1. アレクサンドリアからローザンヌへ
1927年5月25日、フィヒテルはエジプトのアレクサンドリアに生まれた。家系はベルン州ユットヴィルの出で、父ジャック=ルネ・フィヒテル(Jacques-René Fiechter)は詩人・随筆家として知られる。少年期をエジプトで過ごしたのち、スイスに戻ってローザンヌ大学に学んだ。専攻は文学と歴史であり、博士論文はドレフュス事件から第一次世界大戦に至るフランス社会主義の変遷を扱っている。時計産業とは接点のない出発点だった。
2. ヴィルレの30年
1950年、フィヒテルはヴィルレのレイビル社に入る。同社は1932年にフレデリック=エミール・ブランパンが没した際、工場長のベティ・フィヒテル(Betty Fiechter、1896-1971)と販売担当のアンドレ・レアルが引き継いだ会社である。創業家の血縁が絶えると社名に家名を使えないという当時の規定から、社名は村名ヴィルレの音を入れ替えたレイビルに改められ、ブランパンは製品名として残された。ベティは彼の叔母にあたる。
入社後まもなく、フィヒテルは南仏のクラブで潜水を始めている。経過時間を計る手段を持たないまま潜り、空気を使い果たした経験が、のちの設計要求の土台になったと本人は語っている。経営面では量産と輸出の拡大に取り組んだ。1959年には年産10万本を超え、増産の資本を求めて1961年にSSIHへ加盟する。オメガ、ティソ、レマニアと同じ傘の下に入る判断だった。1971年の生産は22万本を超えたとされる。
同じ1971年にベティが没し、以後の経営はフィヒテルに委ねられた。1977年から1980年まではベルン州時計製造業者協会の会長も務めている。ただし1970年代の同社は、クォーツの台頭とドル安、1973年の石油危機に相次いで直面した。SSIHは生産の縮小と資産の売却に踏み切る。フィヒテルは1980年に経営を退いた。
3. 二つ目の職業
退任後のフィヒテルは、学生時代の専攻へ戻る。革命期のフランスを扱う歴史書を著し、ナポレオン戦争に従軍した女性の回想録を訳した。1993年の小説『Tiré à part』は、編集者が作家を破滅させる筋書きの推理小説である。同年フランスの推理文学大賞を受け、1996年にはベルナール・ラップ監督により映画化された。
2002年にマルク・A・ハイエックがブランパンの経営を引き継ぐと、フィヒテルは自社史の証言者として招かれるようになる。フィフティ ファゾムス誕生の経緯は、彼自身が語った記録として残された。2022年5月3日、ヴォー州プレヴェランジュで没している。94歳だった。
業績・代表作
1. 1953年の要求仕様
1950年代初頭、フランス海軍の戦闘潜水部隊の創設に関わったロベール・マルビエ(Robert Maloubier)とクロード・リフォー(Claude Riffaud)は、任務に耐える時計を探していた。複数のメーカーに断られた末に行き着いた先がレイビル社であり、そこには同じ問題を自分の身体で知る経営者がいた。両者の要求はほぼ一致したと伝わる。濁った水中でも読める大型の文字盤と夜光、経過時間を示す回転ベゼル、リューズの摩耗を避ける自動巻、そして確実な防水である。
完成した時計には、フィヒテルの名で取得された機構が組み込まれた。リューズは二重にシールされ、潜水中に不意に引き出されても内側の封が浸水を防ぐ。ベゼルは押し込まなければ回らないロック機構を備え、水中で不用意に動くことを避けた。裏蓋にはOリングの位置ずれを抑える金属リングが入る。名称は保証水深の50尋、約91.45メートルに由来する。発表年は1953年とされるが、ケース製造者ジャン・G・パウリと連名の特許出願は1954年6月19日付で残っており、この空白を指摘する研究もある。
2. 誤操作を前提とする設計
一連の機構に共通するのは、使い手が正しく扱うことを前提としない発想である。潜水中に経過時間を読み違えれば、浮上の判断を誤り生命に関わる。だからベゼルは一方向にしか動かず、しかも意図しなければ動かない。リューズが引かれても、封はもう一枚残る。効率ではなく、使用者の失敗から逆算した設計だった。工学の訓練を受けていない人物がこの分野に残した仕事として、性格がよく表れている。
3. 軍への供給と、量産企業の経営
1950年代末には、文字盤の6時位置に湿度インジケーターを備えた仕様が現れる。内部に湿気が入ると表示の色が変わり、点検の必要を知らせるものだった。米海軍向けには、現地の販売を担ったアレン・V・トルネックの名を冠したトルネック・レイビルが納入され、その数は約1,000本とされる。夜光に用いた放射性物質への規制が強まると、無放射を示す表示を文字盤に加えた個体も作られた。
一方、当時の同社の主力は潜水時計ではない。1956年のレディバードは当時最小級の丸型自動巻ムーブメントを積み、婦人用と宝飾の分野で評価された。年産10万本を支えたのはこうした製品群であり、フィフティ ファゾムスが専門誌の記事で本格的に扱われるのは1971年まで下るという指摘もある。道具としての完成度と、同時代の商業的な位置づけは一致していなかった。
評価・後世への影響
フィヒテルが退いた1980年、ブランパンの名は一度市場から消える。1983年1月、SSIHはレイビル=ブランパンの商標をジャック・ピゲとジャン=クロード・ビバーへ譲渡した。ブランドはヴァレ・ド・ジューのル・ブラッシュで機械式専業として再出発し、1992年にSMH(現スウォッチグループ)の傘下に入る。フィヒテルの時代と現在のブランパンは、社名も所在地も製品も異なる。両者を結ぶのはフィフティ ファゾムスという一本である。
2002年にマルク・A・ハイエックが経営を引き継ぐと、最初の仕事の一つがこのモデルの再興だった。2003年の50周年記念モデルを起点にコレクションは拡張し、海洋保全を掲げる活動にも接続していく。ハイエック自身も潜水を続けており、二人の経営者は同じ趣味を介して交流した。フィヒテルは晩年、歴史を語る側へ回っている。2022年の訃報に際して、ブランパンは追悼の文を公表した。
技術面での継承はより広い範囲に及ぶ。ロック付きの回転ベゼル、視認性の高い大型文字盤、自動巻、耐磁のインナーケースという組み合わせは、その後のダイバーズウォッチが共有する要件になった。1953年前後には同種の時計が複数現れており、どれが最初かをめぐる議論は今も続く。ただし、潜水する当事者が自ら仕様を書き、機構を特許として残した例はほかに乏しい。