設計思想
レーシングの時代に生まれた一本
ブランパンは1735年創業の古典的なマニュファクチュールであり、その伝統はヴィルレ・コレクションに最も色濃い。一方でL-エボリューションは、その対極に置かれた現代的で挑発的なラインである。モジュラー構造のケースは素材と仕上げの自由な組み合わせを前提とし、層を成すダイヤルに視線を誘う。
本機が世に出た2012年前後、ブランパンはGTレースとの結びつきを急速に深めていた。2009年にランボルギーニとスーパートロフェオを立ち上げ、2010年にFIA GT1の公式計時を担い、2011年にはGT3カーによるブランパン・エンデュランス・シリーズを発足させている。この流れの中で、レースの記憶を主題化したモデル群がL-エボリューションRと呼ばれた。8886F-1503-52Bは、その文脈で生まれた複雑時計である。
なぜスプリットセコンドだったか
ラトラパンテ(スプリットセコンド)は、重なり合う2本の秒針で並行する時間を計る機構である。一方の針を止めて区間タイムを読み、再び動く針へ瞬時に追いつかせる。複数の車のラップを計るレースの現場と、機構の論理はよく噛み合う。本機はこれにフライバックを重ね、1度の操作で計測のやり直しを可能にした。搭載するCal.69F9は、この二つの機構とラージデイトを束ねるために設計された自社製ムーブメントである。つまり本機は、意匠だけでなく機構によってもレースを語ろうとした。
白金で仕立てるという選択
同じCal.69F9と意匠は、チタン(8886F-1203-52B)、ホワイトゴールド(本機)、レッドゴールド(8886F-3603-52B)の3素材で展開された。レースの道具としての軽さを求めるならチタンが理にかなう。それでも本機が18Kホワイトゴールドをまとう点に、このRefの性格がある。カーボンという競技の素材と、白金という静かな貴金属。その落差こそが、スポーツの文脈を別の角度から照らし返す。
派生と後続
翌2013年、ブランパンはより簡素なL-エボリューションRのフライバッククロノグラフを続けた。こちらはラトラパンテを持たないCal.68F5を積み、軽量なチタンを中心に据えている。ブランパンのGTレース・スポンサーシップは2019年まで続き、その前後でL-エボリューションは現行ラインから退いた。本機は、ブランパンがレースに最も接近した時代を映す複雑時計として残る。
意匠分析
本機の身体は、相反する2つの素材で構成される。ケースバンドとラグはサテン仕上げの18Kホワイトゴールド、ベゼルとケースバック側はカーボンファイバーである。径は43mmだが、本機で目を引くのは16.04mmという厚みのほうだ。スプリットセコンドとフライバックを束ねたCal.69F9の背の高さが、そのまま腕の上の存在感に変わっている。ラグ幅は23mmと広く、ケースと一体で構えるような佇まいを生む。
ダイヤルは黒いカーボンを複数層で組み、奥行きのある表情をつくる。大ぶりなアラビア数字と夜光、随所の赤が、計器のような可読性と緊張感を与える。6時位置のラージデイトは2つの窓を並べ、デジタル風の書体で日付を示す。9時位置のカウンターはレースのエンブレムを思わせる造形で、30分・12時間の計時を担う。
操作系にも競技の語彙が宿る。計時を始める2時位置のプッシャーは赤く差し色され、8時位置のラトラパンテ用プッシャーは給油口を模した形を取る。中央には重なり合う2本のクロノグラフ針が走り、分離した瞬間に互いを見分けられるよう先端が色分けされている。時分の針とインデックスの色調は、ケース素材に従ってロジウム系の冷たい明るさにまとめられる。
サファイアのケースバックからは、自動巻きローターが覗く。そのローターは自動車のホイールを思わせる造形で、レースとの関係を裏側でも語る。毎時21,600振動(3Hz)で40時間を駆動し、コラムホイールと垂直クラッチが計時の始動を滑らかに整える。ストラップは黒いアルカンターラにカーボンを差し込み、フォールディングバックルで留める。
系譜と歴史
8886F-1503-52Bは、2012年のバーゼルワールドで発表された。レースを主題に据えたL-エボリューションR系の複雑モデルとして披露され、限定ではなく通常生産として供給された。発表時には同一のCal.69F9と意匠を、本機の18Kホワイトゴールドに加え、18Kレッドゴールドの8886F-3603-52Bでも展開している。カタログにはチタンの8886F-1203-52Bも記載があるが、投入の時期については資料により揺れがある。ケース素材の違いはダイヤルの針とインデックスの色、そしてムーブメントの仕上げにも及んだ。
本機の登場は、ブランパンがGTレースへ接近した時期と重なる。2009年のランボルギーニ・スーパートロフェオ、2011年のブランパン・エンデュランス・シリーズという流れが、その背景にあった。翌2013年には、ラトラパンテを持たないCal.68F5搭載のL-エボリューションRフライバッククロノグラフが続き、同系列ではランボルギーニを想起させる配色の限定モデルも生まれている。ブランパンのGTレース・スポンサーシップは2019年に終了し、その前後でL-エボリューションは現行カタログから姿を消した。本機もまた、現在は新品の正規流通からは退いている。