ヘルムート・ジン
航空機の計器を腕へ移し、中間流通を省いて売った飛行家。ジン社を創業し、80歳目前でギナーンを再興したドイツの企業家
生涯
飛行に始まる前半生
ヘルムート・ジン(Helmut Sinn)は1916年9月3日、当時ドイツ領だったロートリンゲンのメスに生まれた。一家は1918年に難民としてプファルツへ移る。近くにシュパイアーの飛行場があり、ジンは幼い頃から飛行機に惹かれた。6歳でパイロットを志し、そのことで笑われたと本人は語っている。18歳で帝国労働奉仕団に入り、レーン山地のヴァッサークッペでグライダーの操縦を覚えた。
その後ドイツ空軍へ進み、1936年から1938年にかけて操縦免許を取得する。戦時中は偵察部隊に配属された。ソ連領上空でJu 88を雲底の低い天候下に着陸させようとして墜落し、背中に重傷を負い、両手の小指を失う。以後は前線を離れ、計器飛行を教える教官となった。終戦後は連合軍の収容所に捕虜として置かれ、1945年のうちに結核を理由に解放されている。
時計商への転身
連合軍が課した飛行禁止により、ジンは操縦の道を絶たれた。「私には職がなかった。場所も材料も要らないものを探した」と後年述べている。彼はシュヴァルツヴァルトで鳩時計を仕入れ、駐留する米兵に売った。その利益で最初の時計工房を構え、1940年代の終わりにはフランクフルトで自分の時計商を営むようになる。
飛行の代わりを求めた先には、もう一つの速度があった。1953年、アルジェからケープタウンまで約14,000kmを走るラリーに出場する。車両を得るためウォルフスブルクのフォルクスワーゲン本社へ直接乗り込んだと本人は語っており、ポルシェ製エンジンを積んだビートルでクラス優勝を収めた。「速いヘルムート」という異名はこの頃のものである。1950年代前半には飛行許可も戻り、フランクフルト・エーゲルスバッハ飛行場の設立に加わって曲技飛行の教官も務めた。自身の免許は1990年代に、1万5,000回を超える飛行を経て更新をやめている。
創業、そして売却をめぐる争い
1961年、ジンはフランクフルト・レーデルハイムにヘルムート・ジン・シュペツィアルウーレンを設立した。45歳のときである。会社は航空機の搭載時計とパイロット用クロノグラフに集中し、30年余りにわたって路線を変えなかった。
1994年、ジンは商標権を含む会社を技術者ロタール・シュミット(Lothar Schmidt)へ売却する。シュミットはIWCで長く幹部を務めた人物だった。売却後も自分は仕事を続けられると考えていたが、対立に至ったと2012年のインタビューで語っている。訴訟となり敗訴し、この争いで「全財産」を失って融資を受けたとも述べている。ただし争点の事実関係については、双方の公表内容が食い違う部分が残る。
80歳の再起業と晩年
1995年、ジンはスイスのギナーン(Guinand)を取得した。翌1996年にはフランクフルトでユビラー・ウーレンを興し、懐中時計のユビラーと航空時計のクロノスポルトという二つの線を立てる。両社はほどなく統合され、本拠はレーデルハイムに置かれた。2006年、90歳を機に経営をホルスト・ハスラーへ委ねる。事業は2014年から2015年にかけてマティアス・クルー(Matthias Klüh)へ引き継がれた。2016年9月に100歳を迎え、2018年2月14日、フランクフルトで没した。101歳だった。
業績・代表作
コックピットの計器を腕に移す
ジンの製品思想は、腕時計ではなく航空機の搭載時計から出発している。1950年代、彼の会社は連邦軍向け搭載時計の入札で老舗ユンハンスを退けて受注を得た。以後、UH-1D、アルファジェット、F-104G、F-4E、トーネードといった機体の計器盤にジンの時計が収められる。1970年代にはルフトハンザのボーイング707・727・737にも搭載され、本人の説明では600個が納入されたという。
1956年、彼は最初のパイロット用クロノグラフの開発に着手した。設計は搭載時計の意匠を意図的に引き継ぎ、機能性・視認性・品質という三つの指針に沿って進められる。装飾を削り、目盛りと針だけで読ませる文字盤はここから生まれた。腕時計を装身具ではなく計器の延長として捉える見方が、彼の作品を一貫している。
他社の在庫から組み上げた代表作
ジンの手法で目を引くのは、経営難に陥った同業から部品や在庫を買い取り、自社の製品として仕立て直した点である。1979年、旧ブライトリング社の清算に際して、彼はナビタイマーのケース・文字盤・ムーブメントの残余在庫を取得した。商標は別の買い手に渡っていたため、同じ設計の時計はジンの名で売られることになる。これが長くカタログに残った航法クロノグラフの出発点である。
1980年代から1990年代前半にかけては、連邦軍が退役させたホイヤー製クロノグラフの在庫を買い取っている。整備して文字盤に自社名を加え、パイロット用連邦軍クロノグラフとして民間に売った。部品の出自を隠さないまま製品として成立させる姿勢は、後年の復刻モデルにも引き継がれている。
中間流通を省くという設計
価格に対する彼の姿勢は、時計そのものの設計と地続きだった。最良の品質を考えうる最も低い価格で、という原則を掲げ、卸や小売を介さず顧客へ直接売る方式を1950年代から採る。広告にも金をかけなかった。連邦軍のパイロットたちが実際に使い、その評判が飛行の世界で口伝てに広がったことが販路になっている。当時のドイツの時計業界で、この売り方は例外に属した。
宇宙へ渡った腕時計と晩年の作
1985年、ドイツ人宇宙飛行士ラインハルト・フラー(Reinhard Furrer)がスペースラブ計画の飛行に、ジンの140系自動巻クロノグラフを持ち込んだ。自動巻クロノグラフが宇宙で用いられた初期の例とされる。その後のドイツ人飛行士の飛行でもジンの時計が携行された。
再起業後の作ではギナーンWZU-5が知られる。主時間のほかに四つの任意の地域時を補助文字盤へ表示する機械式腕時計で、この構成では世界初とする説明が同社から出ている。80歳を前にした時期の設計であり、計器としての読みやすさという初期からの指針は保たれていた。
評価・後世への影響
ジンが手放したシュペツィアルウーレンは、ロタール・シュミットのもとで技術志向を強めた。ケース表面を硬化させる処理や、内部の湿気を抑える技術など、シュミット期に生まれた要素は多い。それでもカタログの中心にあり続けたのは、航法クロノグラフや連邦軍クロノグラフの系譜といったジン時代の型である。近年も復刻や限定版として繰り返し作り直されており、彼が定めた設計指針が経営者の交代を越えて製品の輪郭を決めている。
ギナーンはマティアス・クルーへ引き継がれ、現在も小規模な生産を続けている。同社はもともとジン社の時計製造を請け負っていた会社であり、ジンにとっては自分の時計を作っていた工房を晩年に引き取った形になる。ユビラーとクロノスポルトという副次ブランドも彼の発案だった。
1990年代初頭に発足したベル&ロスの初期モデルがジンの工場で製造されたことも、この系譜に連なる。ドイツ製のツールウォッチが国際的な一分野として通用するようになった背景には、彼の会社が軍と民間の双方で積み上げた実績がある。
中古市場では、1970年代から1990年代前半の製品が「ヘルムート・ジン期」として区別されるようになった。初期の航法クロノグラフにブライトリングの刻印が残る個体があることも、この時期を特徴づけている。本人の希望により、葬送は空からの散骨として行われた。