ロタール・シュミット
IWCのケース技術者からジンの主へ。1994年の買収を実質的な再創業に変えたドイツの機械工学者
生涯
工具製作から機械工学へ
ロタール・シュミット(Lothar Schmidt)は1949年、ドイツ南西部ザールラント州のノインキルヒェンに生まれた。時計産業の集積地からは遠い、鉄と石炭の町である。彼はまず工具製作の職業訓練を受け、その後ザールブリュッケンで機械工学を修めてディプロム・インゲニュアの学位を得た。手で金属を削る職人の訓練と、設計を数値で扱う工学教育。この二層の経歴が、後年の仕事の性格を決めていく。
本人は後年のインタビューで、当初は学業を終えたらプラント建設の分野で独立するつもりだったと語っている。時計産業に入ったのは偶然に近かったという。1975年ごろからスイスの機械メーカーで働き、次いで時計ケースを製造する会社へ設計者として移り、技術部門の責任者を務めた。時計を装飾品ではなく加工対象の金属部品として見る視点は、この時期に形づくられた。
シャフハウゼンの13年
1981年、シュミットはシャフハウゼンのIWCに加わる。当初はフリーランスの立場で、ケースとブレスレットの生産ラインを一から構築する仕事だった。彼が向き合ったのは、当時の時計産業が扱いあぐねていた素材である。チタン、プラチナ、酸化ジルコニウム。いずれも切削や成形が難しく、量産に乗せるには工程そのものを設計し直す必要があった。ポルシェ デザイン名義のモデル群、オーシャン 2000、ダ・ヴィンチのセラミックケース、グランド・コンプリケーションのケース。これらの実現に彼が関与したと伝えられる。社内では生産の責任者を務め、のちに支配人の地位に就いた。
1990年から1993年にかけては、もう一つの仕事が重なる。東西統一後のグラスヒュッテでA.ランゲ&ゾーネを再興する計画である。IWCを率いていたギュンター・ブリュムライン(Günter Blümlein)のもと、シュミットは新会社の生産設備と物流の立ち上げを主導した。1991年にはムーブメント部品の生産体制の構築にも関わっている。1994年のランゲ1の背後には、工場そのものを白紙から引いた技術者たちの作業があった。
1994年9月1日
盲目飛行の教官からブランドを興したヘルムート・ジン(Helmut Sinn)との面識は、1982年にさかのぼるとされる。以後、二人は連絡を絶やさなかった。70代後半に達したジンが後継者を探していた1993年9月、シュミットはIWCを辞し、フリーランスとしてヘルムート・ジンGmbHで働き始める。買収の準備にあてた1年だった。1994年9月1日、譲渡が完了する。社名はジン・シュペツィアルウーレンGmbHへ改められた。従業員は12名だった。
以後の歩みは、設備と組織への投資の連続である。1990年代末にはグラスヒュッテにケース製造会社SUGを共同で設立し、難削材のケースを自前で確保する体制を作った。2017年にはフランクフルト郊外ゾッセンハイムの新社屋へ移転している。2024年時点の従業員は約160名。同年、シュミットは会社を財団の手に委ねる承継構想を公にした。2025年末には社内から2名が共同の経営陣に加わっている。
業績・代表作
244 ── 再創業の宣言
買収の年のうちに、シュミットは自身の最初のモデルを出した。モデル244である。純チタンのクッションケース、フード状のラグ、H型リンクのチタンブレスレット。内部ではETA 2892A2を軟鉄のインナーケースが包み、80,000 A/mの磁界に耐えた。ムーブメントは緩衝を介してケース内に吊られ、クロノメーター検定も通している。
244の意味は仕様の総和にとどまらない。それまでのジンは、スイスで作られた時計を自社ブランドで直販する会社だった。244は自前の工具で作られた最初の製品であり、既存の103、140、144、903といった型もこれ以後は自社工具での生産へ移されている。買収を実質的な再創業と呼ぶ彼の言い方は、この生産手段の移管を指している。
ケースから解く ── 湿気・潤滑・磁気
シュミットの開発は、ムーブメントの設計ではなくケースと外部環境の境界に集中している。
1995年、ダイバーズの203 Ti ArにAr乾燥技術が投入された。硫酸銅の乾燥カプセル、水分の侵入を抑えるEDRパッキン、保護ガスの充填。この三点でケース内部を乾いた状態に保ち、潤滑油の劣化と寒暖差による風防の曇りを抑える。1997年には専用の油と組み合わせ、-45度から+80度で作動する時計へ発展した。
1996年のHYDROは、ケース内を透明な液体で満たす方式である。空気を排したことで内外の圧力差が消え、到達しうる深度で使え、水中でも反射なく読める。
潤滑そのものを消す試みがDIAPALだった。1995年に始まった研究は、アンクルのルビーパレットをダイヤモンドへ置き換える着想から出発する。2000年に材料の組み合わせが定まり、2001年に製品へ載った。2003年にはTEGIMENTが加わる。ステンレスや後年のU ボート鋼の表層を硬化させる処理で、硬質被膜の下地としても働く。2005年からは212型潜水艦の外殻用鋼材がケースに用いられている。
用途から書き起こす ── EZMと規格
1997年、EZM 1とEZM 2が発表された。Einsatzzeitmesser、すなわち任務用計時器の略である。EZM 1は税関の特殊部隊向けに、積算計を持たない中央二針のクロノグラフとして設計され、リューズとプッシャーは左側へ置かれた。EZM 2は連邦警察の水中部隊向けで、HYDROを採用している。用途を先に定め、そこから文字盤と操作系を書き起こす手順は、以後のEZM各型に受け継がれた。
仕事は自社製品の外へも及ぶ。2006年、ジンのダイバーズは欧州の潜水器具規格に沿った試験を受け、第三者機関による認証を取得した。2012年にはアーヘン応用科学大学と共同でパイロットウォッチの技術規格TESTAFを策定し、これが2016年のDIN 8330へつながっている。自社の優位を仕様書として公開し、業界の共通言語に変える。技術者としての姿勢が、そこに一貫して現れている。
評価・後世への影響
ジンの製品史は、ヘルムート・ジン期とシュミット期に分けて語られるようになった。前者を特徴づけるのは航法クロノグラフや連邦軍向けの型であり、後者を特徴づけるのは素材と表面処理、そしてケース内部の環境管理である。買収から30年を経て、この区別は中古市場でも評価軸として通用している。
外部への影響は、自社製品よりも規格の側に残った。パイロットウォッチの技術規格として策定されたTESTAFは、2016年にDIN 8330として工業規格に採られている。自社が持つ優位を仕様書の形で公開し、第三者が検証できる基準へ移すという判断は、装飾や物語で差別化する業界の慣行とは異なる。ドイツ製の実用時計が国際的な一分野として通用する背景には、この規格化の作業がある。
時計師ではなく機械工学者が製造業としてブランドを率いた例として、その経歴は特異である。彼が扱ってきたのはムーブメントの設計ではなく、チタンや潜水艦用鋼といった難削材、乾燥ガス、ダイヤモンドのパレットといった境界の技術だった。時計の性能をケースと外部環境の関係から解くという発想は、シャフハウゼンで素材の量産に取り組んだ13年に根がある。
承継の構想を財団という形で公にした点も、同族経営でも投資会社の傘下でもない第三の道として注目されている。評価が定まるのはこれからである。