設計思想
1. 限定を選ばなかったボンド・ウォッチ
2019年12月4日、第25作『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』の初予告編公開に合わせ、オメガは本機を発表した。ダニエル・クレイグにとって5作目、そして最後のボンド役となる作品である。
直前のボンド関連モデルは、いずれも数量を区切っていた。2015年『007 スペクター』のシーマスター 300(Ref. 233.32.41.21.01.001)は7,007本の限定。同じ2019年には、『女王陛下の007』の公開50周年記念モデルも出ている。ダイバー 300MベースのRef. 210.22.42.20.01.004で、これも7,007本限定であった。本機はこれに対し、数量を定めない通常コレクションとして位置づけられた。
2. 俳優の提案が形にしたもの
開発にはクレイグと製作陣が関わったと、オメガは説明している。クレイグは、軍人であるボンドには軽い時計が欠かせないと考え、ヴィンテージ風の色調も提案したとされる。グレード2チタンの採用、経年変化を思わせる褐色の文字盤、英軍支給品の書式を模した刻印は、その提案を具体化したものである。
軍用品の意匠は、前作の時計ですでに試みられていた。『スペクター』のモデルは、エイジング調の夜光と、英国空軍の装備を思わせるストライプのNATOストラップを備えていた。本機はその語彙を、オメガとボンドの関係の起点であるダイバー 300Mへ移し替えた一本といえる。ダイバー 300Mが劇中でボンドの腕に巻かれるのは、2006年『007/カジノ・ロワイヤル』以来である。
3. 標準モデルとの距離
ベースは2018年に刷新されたダイバー 300M(Ref. 210.30.42.20.01.001)である。ライヤー型のラグ、スカロップベゼル、骨格状の針という基本語彙は残された。10時位置のヘリウムエスケープバルブ(飽和潜水後にケース内のヘリウムを逃がす弁)も同様である。
一方で、2018年世代が高級感の拠り所とした光沢と装飾、機械を見せる裏蓋、日付表示は、ことごとく別の素材と仕様に置き換えられた。本機は色違いの派生ではなく、同じ骨格に別の性格を与えた再解釈として成立している。
4. 映画に先行した時計と、その後
公開延期により、本機は映画より1年半あまり早く店頭に並んだ。予告編と広告で先に知られた時計が、後から銀幕で追認された格好である。
同世代の兄弟は、NATOストラップ仕様のRef. 210.92.42.20.01.001である。その後もボンドの名を冠したダイバー 300Mは続いた。ただし2020年のプラチナゴールド製は、2019年の限定モデルの意匠を継ぐ。2022年の60周年記念モデルは、スチールやカノープスゴールドで作られた。後続が別の方向へ進んだことで、チタンとアルミニウムによる本機の軍用調の構成は、独立した一つの解として際立っている。
意匠分析
ケースはグレード2チタン製で、全面がサテン仕上げとなる。標準モデルはポリッシュとサテンを組み合わせるが、本機は光沢を排し、チタン本来の鈍い灰色を前に出す。公式の総重量は約93gで、スチールブレスの標準モデル(約194g)の半分に満たない。
風防は、かつてのプラスチック風防を思わせる強いドーム形状のサファイアクリスタルである。反射防止コーティングは内側のみで、両面に施す標準モデルとは扱いが異なる。オメガは、この風防の形状によって標準モデルよりわずかに薄くなったとしている。
ベゼルの挿入板は、セラミックとホワイトエナメルの目盛りから、褐色のアルミニウムへ替えられた。目盛りにも夜光塗料が充填され、針やインデックスと同じクリーム色に揃えられている。
文字盤も同じ褐色のアルミニウム製で、波模様のない平滑な面である。古い文字盤が経年で褐色に転じる現象、いわゆる「トロピカル」をなぞった色調だとオメガは説明する。デイト窓は廃され、6時位置の上には英国官給品を示すブロードアロー(矢印形の記号)が印刷された。差し色の赤は、「Seamaster」銘と秒針の先端にだけ用いられる。
裏蓋はシースルーではなく、チタンのソリッドバックである。「0552」は海軍向け、「923 7697」はダイバーズウォッチを示す番号で、「A」はねじ込み式リュウズを意味する。これに「007」と、第1作『007/ドクター・ノオ』の公開年を示す「62」、ブロードアローが加わる。オメガ独自のNAIAD LOCKにより、刻印は常に正しい向きで止まる。
ムーブメントは、自社製Cal.8800からデイト機構を除いたCal.8806である。コーアクシャル脱進機(摩擦を抑える同軸構造の脱進機)とシリコン製ヒゲゼンマイを備える。精度と耐磁性は、METAS(スイス連邦計量・認定局)の基準によるマスタークロノメーター認定で裏づけられる。アラベスク模様のジュネーブウェーブ装飾を施した機械は、ソリッドバックの奥に隠された。見せる機械より、刻印の書式を優先した選択と読める。
ブレスレットは直線的なエンドリンクを持つチタンのメッシュで、調整機構付きのフォールドオーバー式バックルで留める。
系譜と歴史
2019年12月4日、オメガは第25作『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』の初予告編公開に合わせて本機を発表した。NATOストラップ仕様のRef. 210.92.42.20.01.001も同時に公表された。いずれも限定数を設けず、2020年2月からブティックと正規取扱店で販売すると告知された。
発表時点で、映画は2020年3月31日にロンドンでワールドプレミアを行い、4月に公開される予定であった。しかし2020年3月4日、新型コロナウイルス感染症の影響で公開は同年11月へ延期される。同年10月2日には2021年4月2日へ再延期され、2021年1月には同年10月の公開が改めて発表された。本機は劇中での初登場より1年半以上前から市販されることになる。
公開を待つ2020年には、同作に合わせた別のモデルも発表された。プラチナゴールド製のナンバードエディション、Ref. 210.93.42.20.01.001である。
2021年9月28日、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでワールドプレミアが開かれ、英国では9月30日に公開された。劇中ではボンドがメッシュブレスレット仕様を着用し、NATOストラップ仕様は登場人物ノーミ(ラシャーナ・リンチ)が着けていたと伝わる。
2022年には、007映画60周年を記念したRef. 210.30.42.20.03.002が登場した。本機はその後もカタログに残っている。生産期間中の仕様変更について、公式な告知は確認できない。2026年9月時点で、本機はオメガ公式サイトに掲載される現行モデルである。
出典
本文の執筆にあたって参照した資料。閲覧日は内容を確認した日を示す。
- 01 公式 Watches - Omega
- 02 専門メディア History of the Omega Seamaster Planet Ocean