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PERSON · 1928–2010

ニコラス・G・ハイエック

Nicolas G. Hayek
経営者 創業者

スイス時計産業をクォーツ危機から救い、スウォッチ・グループを築いた経営者(1928-2010)

01 — 概要 / OVERVIEW

ニコラス・G・ハイエック(Nicolas G. Hayek、1928-2010)は、レバノン生まれのスイスの経営者である。1980年代初頭、クォーツ危機で破綻寸前にあったスイス時計業界二大グループ、ASUAGとSSIHの合併を主導し、SMH(後のスウォッチ・グループ)を立ち上げた。低価格帯のスウォッチで大量生産の足場を築く一方、傘下のオメガ、ロンジン、ティソを再生させ、その後ブランパン、ブレゲ、グラスヒュッテ・オリジナルなど機械式の名門を次々に取り込んだ。スイス時計産業を崩壊から救った人物として、20世紀後半の業界史に大きな足跡を残している。

02 — Life

生涯

A life in time

1. 中東からスイスへ

ハイエックは1928年2月19日、レバノンのベイルートでギリシャ正教徒の家庭に生まれた。父はロヨラ大学シカゴ校で歯科医の訓練を受けたレバノン系米国人、母はレバノン人だったと伝わる。幼少期をレバノンで過ごし、長じてリヨン大学で数学、物理学、化学を学んだ。

1950年、ベイルートで出会ったスイス人マリアンヌ・メツガー(Marianne Mezger)と翌年に結婚し、夫人の祖国スイスへ移り住む。チューリッヒではスイス・リー(再保険会社)で保険数理士として働き、義父の機械部品会社を一時的に経営した経験も持つ。1963年、チューリッヒで経営コンサルティング会社ハイエック・エンジニアリング(Hayek Engineering)を設立。同社はAEGテレフンケン、スイス連邦鉄道、ネスレ、シーメンス、USスチールといった欧州の大企業を顧客に持ち、1979年までに30か国・300社超のクライアントを抱えるまでになった。

2. スイス時計業界の解剖

1970年代後半、スイス時計産業はクォーツ危機の只中にあった。1970年代初頭まで世界の時計輸出の約半分を占めていたスイスのシェアは、日本と香港の安価なクォーツ式時計の攻勢で15%前後まで急落。業界二大グループのASUAG(ロンジン、ラドーなどを傘下に置く)とSSIH(オメガとティソが中核)は、いずれも経営破綻寸前であった。

1980年前後、スイスの銀行団はハイエック・エンジニアリングに業界の調査を委託する。当初の依頼は両社の清算手続きの計画立案だったが、ハイエックは産業全体の構造的な再建が可能だと判断。1983年、その提言に従ってASUAGとSSIHは合併し、SMH(Société Suisse de Microélectronique et d'Horlogerie)が誕生した。初代CEOには動力研究所ETAを率いてきたエルンスト・トムケ(Ernst Thomke)が就任し、その下でスウォッチの開発が進められた。

3. SMHからスウォッチ・グループへ

1985年、ハイエックはスイス人投資家グループとともにSMHの株式の過半を取得し、CEOに就任。翌1986年には取締役会長を兼ねた。1992年に機械式時計の名門ブランパンを買収、1998年6月にはSMHからスウォッチ・グループへと社名を改めた。

1999年にはアブラアン・ルイ・ブレゲ創業のブレゲを、子会社の動力メーカー、ヌーヴェル・レマニアごとインヴェストコープから取得し、自ら経営の前面に立つ。続けて2000年、グラスヒュッテ・オリジナル、ジャケ・ドローを傘下に収め、価格帯のピラミッドを完成させていく。1998年にはヌーシャテル大学とボローニャ大学から名誉博士号、2003年にはフランス政府からレジオン・ドヌール勲章オフィシエを受章した。

4. 継承と最期

2003年、ハイエックはCEO職を長男ニック・ハイエック・ジュニア(Nick Hayek Jr.)に譲り、自身は会長として戦略指揮に専念する。長女ナイラ(Nayla Hayek)も1995年から取締役に名を連ねていた。2010年6月28日、ビール/ビエンヌのスウォッチ・グループ本社で執務中に心不全を起こし、82歳で生涯を閉じた。死去の数日後、ナイラが会長職を継ぎ、一族による経営は今日まで続いている。

03 — Work

業績・代表作

What this person built

1. ASUAG・SSIH合併:産業再編という処方箋

スイス銀行団から受け取った当初の依頼は、両社の整然たる清算の青写真だった。だがハイエックの診断は逆方向に振れる。問題は技術ではなく構造にある、と。1993年のハーバード・ビジネス・レビュー誌のインタビューで、彼は当時の業界を「無秩序のジャングル、絶対的な混乱」と振り返っている。

合併によって生まれたSMHは、ETAを中核とするムーブメント生産の垂直統合、ブランド間の役割分担、過剰な機種数の整理という三本柱で再編された。それまで競合関係にあったオメガ、ロンジン、ティソが同じ屋根の下に置かれ、ETAが全グループの機械を一手に供給する。後年のラグジュアリー・コングロマリット(リシュモン、LVMHなど)が踏襲することになる構造の原型が、ここに作られた。

2. スウォッチ:大量生産と感情の融合

1983年に投入されたスウォッチは、わずか51点の部品で構成されたプラスチック製のクォーツ時計だった。従来の腕時計は90点を超える部品を要したが、ETAのエルンスト・トムケ、エルマー・モック(Elmar Mock)、ジャック・ミュラー(Jacques Müller)らが大幅な簡素化と完全自動組立を実現したと伝わる。ハイエックは戦略とマーケティングの側からこの構想を支えた立場である。

ハイエックが提唱した「セカンドウォッチ」というコンセプトは、「腕時計は一人一個」という当時の常識を覆した。同じ人が複数のスウォッチを服装や気分で使い分ける。これにより販売数量は跳ね上がり、グループ全体の再建を支える現金収入源となる。色彩、デザイナー・コラボ、限定モデルといった販促手法は、後に時計業界全体に広がる「エモーショナル・マーケティング」の原型となった。

3. 高級ブランドのピラミッドを築く

スウォッチの利益をテコに、ハイエックは1990年代以降、機械式の名門を次々に取り込んでいった。1992年、ジャン=クロード・ビバー(Jean-Claude Biver)が再生させた直後のブランパンを買収し、機械式時計復権の象徴を手中に収める。1999年にはアブラアン・ルイ・ブレゲ創業のブレゲを、子会社の動力メーカー、ヌーヴェル・レマニアごとインヴェストコープから取得した。2000年にはグラスヒュッテ・オリジナル、ジャケ・ドロー、ウニオン・グラスヒュッテを加える。

これによりスウォッチ・グループは、入門価格帯のスウォッチから、ハミルトン、ティソ、ロンジン、オメガを経て、ブランパン、ブレゲ、ジャケ・ドローという最高級帯に至る完全なピラミッドを形成した。各ブランドは独立した利益責任を負いながら、ムーブメントと販路をグループで共有するという構造である。

4. 製造業を守るという哲学

ハイエックの経営思想は、製造業をスイス国内に保持するという信念に貫かれていた。中国への生産移転や下請け化を拒み、ムーブメント、ケース、文字盤、宝石といった工程をグループ内に保持し続ける。1990年代後半には、ETAが製造する外販ムーブメントの段階的な供給打ち切り方針を打ち出し、業界に大きな波紋を呼んだ。この決定は、後の独立系メーカーが脱ETA化を進める遠因のひとつとされる。

副次的な業績として、超小型車Smartの構想がある。スウォッチの製造哲学を自動車に応用する発想で、1994年にダイムラー・ベンツとの合弁会社MCC(後のSmart)が設立された。ハイエックは1998年に持株を売却して関与を縮小したが、Smartという車名は「Swatch Mercedes Art」の頭文字に由来する。

04 — Legacy

評価・後世への影響

What remains

ハイエックの没後、スウォッチ・グループは長女ナイラ・ハイエックが会長を、長男ニック・ハイエック・ジュニアがCEOを引き継ぎ、孫のマーク・ハイエック(Marc Hayek)がブレゲ、ブランパン、ジャケ・ドローのCEOを務めるという、一族による経営体制を維持している。

業界への影響は、クォーツ危機からスイス時計産業を救った直接的な功績にとどまらない。垂直統合された巨大コングロマリットによる多ブランド経営という形態は、リシュモン・グループやLVMHウォッチ部門の参照モデルとなった。「セカンドウォッチ」とエモーショナル・マーケティングの考え方も、業界全体の表現様式を変えている。

一方で、ハイエック没後のスウォッチ・グループは、スマートウォッチの台頭、中国市場の減速、競合との差別化など、複数の課題に直面している。彼が築いた仕組みが次の時代にも通用するかは、業界の試金石として注視されているところである。

2010年6月28日の訃報の際には、競合ブランドの経営陣からも追悼の声が寄せられた。スイス時計産業がクォーツ危機の崖から復活できたことを、ハイエックの個人的功績の文脈で語る論調は、今日も色濃く残っている。

05 — Works

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