ジャック=ダヴィッド・ルクルト
ルクルト&Cieを率い、パリのエドモン・ジャガーと組んで、のちのジャガー・ルクルトへの道を開いた経営者(1875-1948)
- BORN
- 1875年
- DIED
- 1948年
- BRAND
- ジャガー・ルクルト — 1833年創業
- MODELS
- 9 本
概要
ジャック=ダヴィッド・ルクルト(Jacques-David LeCoultre、1875-1948)は、アントワーヌ・ルクルトの孫で、ルクルト&Cieを率いたスイスの時計製造業の経営者である。スイス歴史辞典によれば、ジュネーヴの時計学校に学んだのち、1906年にルクルト&Cieの総支配人となった。1902年からパテック フィリップに、1903年からパリのエドモン・ジャガーにムーブメントを供給し、1916年からはジャガーを通じてフランスの航空隊に回転計を納めた。1931年にはセザール・ド・トレイと組んでレベルソを売り出す会社を設け、1937年には会社がジャガー・ルクルトの名を採った。
生涯
01家と修業
スイス歴史辞典(DHS)によれば、ジャック=ダヴィッド・ルクルトは1875年12月31日にル・サンチエで生まれ、1948年5月17日に同地で亡くなった。ルクルト&Cieの共同経営者エリーとクレマンティーヌ・エリーズ・ラーフラウブの子で、アントワーヌ・ルクルトの孫にあたる。ヴァレ・ド・ジューの工業学校に学び、1890年から1895年まで家業で修業したのち、1895年から1896年にジュネーヴの時計学校に通った。1901年にはムルテン出身のジャンヌ・マルグリット・シュトックと結婚している。
02会社を率いて
DHSによれば、ルクルトは1899年にルクルト&Cieの取締役会の書記となり、1906年に総支配人に就いた。1911年には工場を拡張している。第二次世界大戦の前夜には、パリに1800人、ロンドンに500人、米国に400人、ル・サンチエに700人の職人を抱えていた。1945年にはローザンヌ大学から名誉博士号を受けた。
業績・代表作
01供給とジャガーとの協業
DHSによれば、ルクルトは1902年からパテック フィリップに、1903年からパリのエドモン・ジャガーに供給を行った。1916年からは、販売元のジャガーを通じてフランスの航空隊に回転計を納め、1917年にはジャガーと共同出資の会社を設けた。英国のサイエンス・ミュージアム・グループの記録は、1903年にパリのエドモン・ジャガー(1858-1922)が、自ら考案したムーブメントを作るようジャック=ダヴィッド・ルクルトに持ちかけたと伝えている。
02レベルソ
Antiquorumの競売の解説によれば、スイスの実業家セザール・ド・トレイは、インドでポロをした英国の将校たちから、競技の荒い扱いに耐える時計を作るよう求められた。欧州に戻ったド・トレイはこの課題をルクルトに相談し、パリのジャガーとともにレベルソが生まれた。1931年秋、シャヴォの特許の権利を買い取っていたド・トレイとルクルトは、レベルソをはじめルクルト&Cieとパリのジャガーの時計を売る会社「スペシャリテ・オルロジェール」を設立した。
03小さな時計
DHSによれば、ルクルトは1939年のベルンの全国博覧会で、世界で最も小さな時計を展示した。
評価・後世への影響
ルクルトが率いた時代に、会社はジャガー・ルクルトの名を得た。Antiquorumの解説とサイエンス・ミュージアム・グループの記録は、いずれも1937年に会社がジャガー・ルクルトの名を採ったと伝えている。
祖父アントワーヌが始めたル・サンチエの仕事は、ルクルトの代に、パリのジャガーとの協業や他社へのムーブメントの供給を通じて国際的な広がりを得た。第二次世界大戦の前夜に、パリ、ロンドン、米国、ル・サンチエに多くの職人を抱えていたことは、その規模を物語っている。
この人物が関わったモデル
出典
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