アントワーヌ・ルクルト
ピニオンづくりから出発し、ル・サンチエの工房をのちのジャガー・ルクルトへ育てたヴァレ・ド・ジューの時計師・発明家(1803-1881)
- BORN
- 1803年
- DIED
- 1881年
- BRAND
- ジャガー・ルクルト — 1833年創業
- MODELS
- 9 本
概要
生涯
01家と修業
スイス歴史辞典(DHS)によれば、アントワーヌ・ルクルトは1803年4月16日にル・サンチエで生まれ、1881年4月26日に同地で亡くなった。父ジャック・ダヴィッドは鍛冶屋で、のちにピニオン(歯車の軸)と剃刀の刃を作るようになった。アントワーヌは父のもとで修業し、1828年にジュネーヴの時計学校で学んだ。1831年には、テンプを作る職人ルイ・サミュエル・ゴレーの娘ジュリー・ゼリー・ゴレーと結婚している。
02事業の歩み
DHSによれば、ルクルトは1833年から1849年まで弟のユリスと組み、ジュネーヴとヌーシャテルの時計師向けにピニオンを作った。1850年からはエボーシュ(未完成のムーブメント)の製造を始める。最初の工房はジュネーヴのクルヴルニエールにあり、ル・サンチエの工場は1840年に建てられ、1867年と1874年に拡張された。1859年には、100人の職人を抱えていた会社を救うため、オーギュスト・ボルジョー(1831-1877)と組まねばならなかった。DHSは、ルクルトを天才的な発明家でありながら商才には乏しかったと評している。1877年、彼は会社を3人の息子に譲った。
ルクルトは公職にも就き、1852年にヴォー州議会の議員に選ばれ、1858年には知事代理に任じられた。
業績・代表作
01ピニオンからエボーシュへ
ルクルトの出発点は、時計の歯車の軸であるピニオンの製造であった。DHSによれば、1833年から弟と組んで、ジュネーヴやヌーシャテルの時計師にピニオンを供給した。1850年には、ムーブメントの基になるエボーシュの製造へと仕事を広げている。
02マイクロメーターのネジ
DHSは、1844年にルクルトが考案したマイクロメーターのネジが、スイスの時計産業にメートル法を広めることになったと書いている。部品を細かく正確に測る道具は、時計の部品の精度を高め、同じ寸法の部品を作るための土台となった。
03万国博覧会
ルクルトは1851年のロンドン万国博覧会で金メダルを受けた。DHSは、この評価をもって彼を天才的な発明家と呼んでいる。
評価・後世への影響
ルクルトが始めた事業は、子孫の代に大きく育った。英国のサイエンス・ミュージアム・グループの記録によれば、1833年にアントワーヌがル・サンチエに小さな工房を開き、1866年には息子のエリーがこれを会社と工場、ルクルト&Cieに改めた。1903年にはパリのエドモン・ジャガー(1858-1922)が、自ら考案したムーブメントを作るようジャック=ダヴィッド・ルクルト(1875-1948)に持ちかけ、1937年にジャガー・ルクルトのブランドが生まれた。
ピニオンという小さな部品の製造から始まった仕事は、こうしてヴァレ・ド・ジューを代表する時計の会社へとつながった。
この人物が関わったモデル
出典
本文の執筆にあたって参照した資料。閲覧日は内容を確認した日を示す。