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PERSON · 1873–1934

グイド・パネライ

Guido Panerai
技師 経営者

ラジウムの光を軍用照準器に持ち込み、フィレンツェの時計店をイタリア海軍の精密機器工房へ変えた二代目

01 — 概要 / OVERVIEW

グイド・パネライ(Guido Panerai、1873-1934)は、フィレンツェの時計商を精密機器の製造者へ転じたイタリアの経営者であり発明家である。1860年に時計店を開いたジョヴァンニ・パネライの孫にあたり、20世紀の初頭に家業を継いだ。店にオロロジェリア・スヴィッツェラの名を与えてスイス各社の販売を担う一方、機械工房を興し、イタリア王立海軍向けの光学機器と精密装置を手がけた。ラジウムを用いて暗所で読み取れる照準器と計器を実現し、その発光材にラジオミールの名を与えている。パネライが腕時計を作るのは彼の没後だが、それを可能にした技術と海軍との関係は、彼が築いたものである。

02 — Life

生涯

A life in time

1. 時計商の家に生まれて

グイド・パネライ(Guido Panerai)は1873年にフィレンツェで生まれた。父はレオン・フランチェスコ・パネライ(Leon Francesco Panerai)である。祖父にあたるジョヴァンニ・パネライ(Giovanni Panerai、1825-1897)は、1860年にポンテ・アッレ・グラツィエで時計店を開いた人物だった。店は販売と修理を兼ね、フィレンツェで最初の時計学校としても機能していた。

グイドは美術学校に学び、絵の才があったと伝えられる。家業を継ぐ道筋からは外れた選択に見えるが、彼が後に持ち込んだのは意匠の感覚ではなく、機械と光学への執着だった。

1876年、ポンテ・アッレ・グラツィエの拡幅にともない橋上の店舗が取り壊されることになり、店は移転を重ねる。最終的に落ち着いたのが、洗礼堂に面したサン・ジョヴァンニ広場の大司教館である。現在もパネライのフィレンツェ拠点はここに置かれている。

2. 二つの事業を並べる

20世紀の初頭、グイドは店にオロロジェリア・スヴィッツェラ(スイス時計店)の名を与えた。ロレックスヴァシュロン・コンスタンタン、ロンジンなどを扱う正規販売店であり、この屋号は2000年まで使われている。

同じ頃、彼はもう一つの事業を立ち上げた。「グイド・パネライ機械工房」である。妻の実家がフィレンツェで軍向けの飯盒などの金属製品を製造しており、グイドはその経営も引き受けたと伝えられる。時計の小売と金属加工という二つの核から、光学と精密機械を扱う製造部門が生まれた。特殊レンズの製作と、軍用装置の設計がその内容である。

一族が積み上げた時計商としての信用に、工作機械と量産の手段が加わる。この組み合わせが、以後の事業の性格を決めた。

3. 海軍という顧客

イタリア王立海軍(レジア・マリーナ)は早い段階から重要な取引先となった。海軍が求めたのは既製品ではなく、具体的な課題への解答である。夜間に照準を合わせたい、水中で計器を読みたいといった要求が持ち込まれ、工房は試行錯誤でそれに応える装置を作った。解決に至ったものは、多くが特許として出願されている。軍事機密に指定された案件は、その対象から外された。

この受注開発の体制が、パネライを一般的な時計商とは別種の企業に変えていく。第一次世界大戦期に納入が本格化し、会社は自前の市場を持つに至った。職人的な規模を保ちながら研究部門を抱えるという形が、ここで定まる。

4. 息子への継承

1903年に生まれた息子ジュゼッペ(Giuseppe Panerai)は、1924年に商業と会計の資格を得ると、店の経営を姉マリアに委ね、工房の技術と設計に専念する道を選んだ。翌1925年5月15日、父子はパネライ・グイド・エ・フィリオ(Guido Panerai & Figlio)を設立する。時計と工具の小売、光学品と精密機械を業とする会社である。

父子が並んで働いた期間は10年に満たない。グイドは1934年に没し、ジュゼッペが後を継いだ。海軍が水中工作員のための腕時計をパネライに求めるのは、その翌年のことである。

03 — Work

業績・代表作

What this person built

1. ラジオミール — 暗闇で狙うための光

グイド・パネライの名を残したのは、ラジウムによる自発光の技術である。硫化亜鉛のような蛍光体に放射性物質を混ぜると、外光がなくとも発光が持続する。彼はこれを計器の文字盤に、そして照準器や望遠鏡のレチクルに応用した。

注意を要するのは、彼が発光物質そのものを発明したのではない点である。ラジウム系の発光塗料そのものは、20世紀初頭にジョージ・F・クンツが特許を得ている。グイドが1915年8月に英国へ出願した特許は「小火器および魚雷発射管用照準装置の改良」と題され、対象は装置の側にあった。放射性の粉末を小さな密閉容器に収め、それを照準具へ組み込む。夜間の射撃精度を上げるための構成である。

ラジオミールという名は、ラジウムを指すradioと、照準を意味するmiraの合成と解される。この語が本来指したのは「ラジウムの照準器」であって、時計の夜光ではなかった。ブランドの公式資料は、名称が1916年3月23日にフランスで出願された特許の追補に記録されたとし、海軍士官カルロ・ロンコーニとの協働から生まれたとしている。

2. 魚雷を撃つための計算機

1913年、工房は魚雷艇MAS用の発射計算器を完成させた。複雑な機械式の演算機構に、完全な暗闇でも読める表示を組み合わせた装置であり、第一次世界大戦で実用されている。

この一台に、彼の仕事の性格がよく表れている。グイドが扱ったのは計時ではなく、計算と視認だった。海上の暗闇という条件下で、機械が答えを出し、人がそれを読み取れること。発光技術は独立した発明ではなく、この読み取りという問題への部品として位置づけられる。羅針盤、水深計、投光器といった潜水装備が続いたのも、同じ発想の延長にある。

3. 小売と製造という二重構造

事業の組み立てそのものも、業績に数えてよい。表通りの店はスイス製の高級時計を扱い、工房は海軍の機密案件を請け負う。前者が現金と信用をもたらし、後者が技術を蓄えるという関係である。

とりわけロレックスとの取引は後年に効いた。1930年代にパネライが腕時計を必要としたとき、ケースとムーブメントの供給元に選ばれたのはロレックスだった。この結び付きは、販売代理店としての長い付き合いの上に成り立っている。

4. 腕時計に至らなかった仕事

グイド自身は腕時計を設計していない。海軍が第1潜水艦グループのために水中で読める腕時計を求めたのは1935年で、試作を発注したのは息子ジュゼッペである。1936年から1938年にかけて形になったラジオミールは、父の発光技術と海軍との関係を、息子が時計という器に移したものだった。

47mmのクッション型ケース、数字を彫り抜いた二層構造の文字盤、ロレックスから供給された手巻ムーブメント。この構成のうちグイドに帰せられるのは、暗闇で読ませるという発想と、それを成り立たせる物質だけである。ただしその二つを欠けば、パネライという時計は生まれなかった。

04 — Legacy

評価・後世への影響

What remains

没後の事業と、名の行方

グイドの死後、事業はジュゼッペのもとで拡大した。生涯におよそ80件の特許を数えたジュゼッペは、会社を海軍の設計事務所に近い存在へ変えていく。戦時中の従業員は100人を超えた。1949年にはルミノールの名が商標登録され、1956年にはリューズ保護装置の国際特許がグイド・パネライ・エ・フィリオの名義で出願されている。父の名は、その死後も会社の名として残り続けた。

1972年にジュゼッペが没すると、海軍出身の技術者ディノ・ゼイが事業を引き継ぎ、社名はオフィチーネ・パネライへ改められる。一族の名が会社から消えたのはこのときである。1997年、時計部門はヴァンドーム(現リシュモン)へ売却された。

グイドに関する一次資料は多くない。1966年のアルノ川の洪水でパネライ家の文書の大半が失われたためである。現在流布する事績の一部は、後年の再構成に依っている。ラジオミールをめぐる説明にも揺れがあり、発光物質そのものの特許と、それを用いた照準装置の特許とが混同されてきた経緯がある。近年は公式の記述にも見直しが入った。

それでも名は残った。ラジオミールは今日のパネライで製品系列の名称となり、ルミノールと並ぶ二本柱をなしている。もとは夜の海で魚雷を狙うための語である。腕時計史における彼の位置は、時計を作った人物としてではなく、時計が成立する条件を先に用意した人物として測るのが正確だろう。

05 — Works

この人物が関わったモデル