ジョヴァンニ・パネライ
1860年のフィレンツェで、時計店と工房と市内初の時計学校を兼ねる一軒を開いたパネライの初代
ジョヴァンニ・パネライ(Giovanni Panerai、1825-1897)は、イタリア・フィレンツェの時計商であり、今日のオフィチーネ・パネライの創業者にあたる。1860年、アルノ川に架かるポンテ・アッレ・グラツィエに店を構えた。そこは時計を売る場であり、修理を引き受ける工房であり、市内で最初の時計学校でもあったとされる。イタリアに時計製造の基盤がない時代に、スイス製の時計を扱い、その手入れと職人の育成を担う拠点を作った。軍用精密機器や腕時計を手がけるのは孫グイドの代であり、彼自身の名を冠した時計は知られていない。それでもブランドが起点を1860年に置くのは、この一軒があったからである。
生涯
1. 統一へ向かう都市で
ジョヴァンニ・パネライ(Giovanni Panerai)は1825年に生まれ、1897年に没した。生年と没年、そして店を開いた年を除けば、彼個人について確実に伝わる記録は少ない。修業の経緯も、師の名も残っていない。
店を構えた1860年のフィレンツェは、政体の変わる途中にあった。同年3月、トスカーナは住民投票でサルデーニャ王国への併合を選ぶ。翌1861年にイタリア王国が成立し、1865年からの6年間はフィレンツェが首都を務めた。首都機能を受け入れるための都市改造が始まり、街路と橋が作り替えられていく。
35歳のパネライが選んだのは、アルノ川に架かるポンテ・アッレ・グラツィエだった。13世紀に架けられたこの橋は、当初は建設を命じた行政長官の名からポンテ・ア・ルバコンテと呼ばれていた。橋脚の上には礼拝堂や庵から転じた小さな建物が並び、そのあいだに職人の店が混じる。ポンテ・ヴェッキオと似た風景である。
2. 売る、直す、教える
店は三つの役割を兼ねていた。時計の販売と、修理を担う工房、そして時計づくりを教える学校である。ブランドの公式資料は、これを市内で最初の時計学校と説明する。生徒の数や修業年限を示す記録は確認できない。
当時のイタリアに時計製造の産業基盤はなく、精度の高い時計はスイスやフランスから入ってきた。輸入品を扱う店は、売った後の面倒を自前で引き受けねばならない。手を動かせる人間を育てることが、商いの条件だった。屋号はオロロジェリア・G・パネライ・エ・コンパーニャと伝えられる。
一部の資料は、開業当初から高精度の機械加工を業としていたと記す。時計の修理と精密な機械加工が同じ作業台に載っていたことは、後の事業の性格を考えるうえで見落とせない。
3. 橋を降りる
1876年ごろ、橋の上の建物は取り壊された。路面電車を通すために車道を広げる工事で、使われなくなった小屋が対象となった。両側には歩道が設けられ、欄干は当時好まれた鋳鉄に置き換えられている。着手を1873年から1874年とする記述もある。パネライの店も橋を離れ、以後は市内で移転を重ねた。
店がサン・ジョヴァンニ広場の大司教館に落ち着くのは1920年代、孫の代のことである。ジョヴァンニは1897年に没した。長男レオン・フランチェスコ(Leon Francesco Panerai)が家業を受け、その子グイド(Guido Panerai、1873-1934)が世紀の変わり目に経営を握る。
業績・代表作
1. 三つの機能を一つの住所に置く
ジョヴァンニ・パネライの業績は、特定の時計ではなく店の設計にある。売り場と工房と学校を同じ住所に重ねた構成は、当時のイタリアでは理にかなった解答だった。
時計は輸入品である。売れば修理の需要が生じ、修理には熟練した手が要る。職人を外から呼べない土地では、自分で育てるほかない。学校は篤志ではなく、供給を確保する仕組みだった。育った者の一部は工房に残り、残りは市内の同業へ散る。フィレンツェに時計を扱う層が形づくられる。
この形自体は珍しくない。19世紀のヨーロッパでは、時計商が修理工房と徒弟を抱えるのは通例である。パネライの場合、教育の機能を看板に掲げ、それを後に製造業へ転じる土台にした点が違っていた。工房で扱えるものが増えれば、請けられる仕事も広がる。時計の修理から精密な機械加工へ業容が伸びていく道は、この段階で開いている。
2. スイスとの取引という資産
店が長く保った価値は、スイスの製造元との取引関係にある。イタリアの都市の時計商は、供給元と信用で結ばれることで成り立つ。質の確かな品を切らさず仕入れられるかどうかが、店の評判を決めた。
この関係は世代を越えて残る。孫のグイドは店にオロロジェリア・スヴィッツェラ(スイス時計店)の名を与え、ロレックスをはじめとする各社の正規販売店とした。屋号がスイスを名乗ること自体が品質の表明であり、公式の説明はこの名がフィレンツェで一世紀以上にわたり高品質の時計を指してきたとする。1930年代にパネライが海軍向けの腕時計を必要としたとき、ケースとムーブメントの供給元に選ばれたのはロレックスである。初代が引いた仕入れの筋道が、半世紀を経て製品の中身を決めた。
3. 作らなかったものについて
ジョヴァンニ・パネライの名を冠した時計は知られていない。意匠も機構も彼に帰せられるものはなく、署名の入った個体が体系的に確認されているわけでもない。クッション型のケース、彫り抜いた二層構造の文字盤、暗所での視認性という後年のパネライらしさは、いずれも孫と曾孫の世代の仕事である。海軍の試験用に最初の腕時計の試作が発注されたのは1935年、曾孫のジュゼッペの時代にあたる。
創業者の業績を製品の数で測るなら、書けることはほとんど残らない。彼が渡したのは場所と関係と年号だった。1860年という起点があり、そこへ戻れる住所があり、スイスと結ぶ取引がある。この三つを欠けば、20世紀のパネライは別の何かになっていた。
評価・後世への影響
名が残り、記録が消える
ジョヴァンニの死後、事業は孫グイドのもとで性格を変えた。小売はサン・ジョヴァンニ広場へ移って続き、機械工房はイタリア王立海軍の求めに応える製造部門へ育つ。1916年の発光材ラジオミール、1930年代半ばからの潜水用腕時計は、その延長線上にある。1972年に社名がオフィチーネ・パネライへ改められると、一族の名は会社から離れた。1997年、時計事業はヴァンドーム(現リシュモン)の傘下に入る。
それでもブランドは創業年を1860年と数え続けている。製品や広告に現れるSince 1860の表記は、この初代の開業を指している。2001年にはオフィチーネ・パネライが一族の店を取得し、サン・ジョヴァンニ広場の店舗を改装して再開した。同地に置かれた歴史資料には、19世紀半ば以降の時計や工具、特許書類が含まれる。
一方で、初代個人の輪郭は薄いままである。1966年11月のアルノ川の洪水はフィレンツェの文書館や図書館に大きな被害を与え、パネライの資料もこのとき多くが失われたと伝えられる。開業の場所についても、橋の上とする記述と橋のたもととする記述が並び立つ。
腕時計史における彼の位置は、作品ではなく場によって測るほかない。イタリアに時計を扱う技術と商いの拠点を一つ作り、それを孫の世代へ渡した。ラジオミールもルミノールも、この店の奥の作業台から始まっている。