エルネスト・フランシヨン
1866年、サンティミエの牧草地に工場を建てた実業家。ロンジンの名と翼ある砂時計を残した
エルネスト・フランシヨン(Ernest Francillon、1834-1900)は、スイス・ローザンヌ生まれの実業家であり、ロンジンの実質的な創業者である。叔父オーギュスト・アガシの時計商会を引き継いだのち、1866年、サンティミエ郊外の牧草地「Les Longines」に工場を築いた。谷に散らばる職人の分業に依存してきた生産を、一つの屋根の下へ集めた転換である。土地の名はそのままブランド名となった。翌1867年には自社初のキャリバー20Aを世に出し、パリ万国博覧会で受賞している。米国式の工場生産にスイスがどう応じるか——その問いに、経営の側から答えを出した人物といえる。
生涯
商家の子からジュラの谷へ
エルネスト・フランシヨンは1834年7月10日、ローザンヌに生まれた。父マルクは鉄を商う商人、母オリンプは、サンティミエで時計商会を営むオーギュスト・アガシ(Auguste Agassiz)の姉にあたる。ローザンヌのコレージュ・ガリアール、ヴヴェイのシリグ学院で学び、シュトゥットガルトの商業学校へ進んだ。その後ヌーシャテル州モーティエで時計職人の徒弟を務めている。帳簿の読み方と工房の手仕事を、いずれも若いうちに通過した経歴である。
叔父アガシは1832年にサンティミエへ移り、翌年から時計を扱う商会を営んでいた。生産の方式はエタブリサージュ、すなわち谷に散在する職人が部品と仕上げを分担し、商会が完成品として輸出する仕組みである。フランシヨンが商会に加わったのは1850年代前半とされ、入社年と経営継承の時期は資料により記載に幅がある。健康を損ねたアガシがローザンヌへ退いたのち、経営は次第に甥の手へ移った。1860年代半ばには、商会は叔父ではなくフランシヨンの名で呼ばれるようになる。
鉄道と議会
活動は工場の外にも及んだ。1871年から1888年までジュラ=ベルヌ=リュツェルン鉄道の取締役会長を務め、1890年から1898年にはジュラ=サンプロン鉄道の副会長に就いている。アルベール・ゴバ、ピエール・ジョリサン、エドゥアール・マルティらとともに、ベルン州ジュラ地方の鉄道網整備を進めた。谷で作った時計を売るには、まず谷から出る道が要る。産業と交通を切り離さずに扱う姿勢が、その経歴には一貫している。
政治の側では、1878年から1882年までベルン州議会議員、1881年から1890年まで急進派の国民議会議員を務めた。1887年にはサンティミエ総評議会の初代議長に就いている。分離主義には終始反対の立場を取った。通商条約の交渉や、貴金属の刻印管理に関する法整備にも関与したと伝わる。連邦軍では中佐として大隊を率いた記録が残る。
最後の一年
1899年8月、一人息子エルネスト=エティエンヌを軍務中の事故で失った。当時の業界紙は、この出来事が彼に回復しがたい打撃を与えたと記している。それでも公務からは退かなかった。
1900年3月30日、彼はパリ万国博覧会へ送る製品を訪問客に披露している。体調が優れず自ら案内できないことを詫びたと伝わる。その4日後の4月3日、インフルエンザから悪化した症状によりサンティミエで没した。65歳。奇しくもこの日は、スイス時計協会(Chambre suisse de l'horlogerie)の創立総会で議長を務める予定の日だった。サンティミエの自治体は公葬をもって彼を送っている。4月20日、会社は「Fabrique des Longines, Francillon & Cie」へ正式に改称された。工場の名が、ようやく社名になった瞬間である。
業績・代表作
一つ屋根の下へ
1866年、フランシヨンはサンティミエの谷底、スーズ川沿いの製粉所跡とその周辺を取得した。「Les Longines」——長い牧草地を意味するこの地名が、そのまま工場とブランドの名になる。当時のスイスで水力を安定して使える場所は限られており、この岩がちな一角は数少ない候補だった。1867年に稼働した建屋には10馬力の水車が据えられたと伝わる。部品を作る職人が、初めて同じ屋根の下に集められた。
機械化の道具は、買おうにもどこにも売っていない。ゲージ、旋盤、鋸、治具、動力の伝達系に至るまで、自作するほかなかった。フランシヨンの縁戚と伝わる技師ジャック・ダヴィッド(Jacques David)は、1867年に一度会社を離れたものの、1869年に技術部長として復帰し、機械の設計を担っている。
キャリバー20Aという賭け
新工場が1867年に送り出した最初の自社ムーブメントが、20リーニュのキャリバー20Aである。アンクル脱進機を備え、鍵ではなくリューズで巻き上げと時刻合わせを行う設計だった。当時のスイス製の大半はシリンダー脱進機と鍵巻きで、この仕様は主流から外れていた。
狙いは米国市場にあった。ウォルサムに代表される米国の工場は、機械加工による石入りアンクル脱進機を量産していた。フランシヨンは避けるのではなく、同じ土俵で競う道を選んだ。20Aは同年のパリ万国博覧会に出品され、銅メダルを得ている。出品にあたっては彼自身が現地でこの時計を示したと伝えられる。
1876年、フィラデルフィアからの警鐘
1876年のフィラデルフィア万国博覧会に、フランシヨンは自社の時計を送った。やがて現地から、ジュラ産業州際協会の代表テオドール・グリビが「新大陸の競争相手に追い越された」という報告を寄せる。フランシヨンはこれを受け、ダヴィッドを渡米させた。
ダヴィッドは博覧会を見たうえで米国各地の時計工場を巡り、1877年11月に長大な報告書を協会へ提出する。手作業を機械に置き換えること、部品の互換性を最優先すること。その内容は、スイス時計産業の工業化を促した文書として今日評価されている。報告は広く公表されず、ロンジンを含む数社に配られたにとどまった。裏を返せば、勧告を真っ先に実行できたのは、報告を書いた本人が働く工場だった。
名前を刻むという防衛
工場を出る時計には、シリアル番号とLonginesの名、そして翼のある砂時計が刻まれた。模倣品が出回ったためである。1874年には顧客へ注意を促す通知を送っている。1880年にスイスで商標を保護する制度が整うと、フランシヨンはただちに登録に動いた。1889年には改訂したロゴを、1893年には知的所有権保護国際事務局——WIPOの前身——へ国際登録している。ロンジンによれば、これは同機関の国際登録に残る、変更を経ていない最古の現役商標である。
製品の幅も広げた。1878年に初のクロノグラフ用キャリバー20H、1881年に婦人用の14リーニュ、1888年には初のクロノメーター規格キャリバー21.59。機械で作り、名前を刻んで売る——工場・機構・商標という三つの投資は、この一本の線でつながっている。
評価・後世への影響
工場に残った名
フランシヨンの死後も、会社は彼の名を手放さなかった。現在の正式社名は Compagnie des Montres Longines, Francillon S.A. であり、創業者の姓は120年以上にわたって商号の一部であり続けている。工場も1867年以来、スーズ川沿いの同じ場所で操業している。サンティミエには1907年、彼を記念する碑が建てられた。
技術面の継承は、ジャック・ダヴィッドから1912年にアルフレッド・プフィスターへ渡り、1950年代のフリッツ・ガレーへと続いた。1876年に渡米した技師の系譜が、そのまま工場の技術指導者の系譜になっている。
産業史のなかの位置
ダヴィッドの1877年報告書は長く一般の目に触れなかったが、1992年にロンジンが提供した写本をもとにリチャード・ワトキンスが注釈付きで公開し、研究者が参照できるようになった。スイス時計産業が19世紀末に機械化へ舵を切った経緯を語るとき、この文書とその発注者であるフランシヨンは、今日ほぼ必ず言及される。
同じ時期、ル・ロックルのジョルジュ・ファーヴル=ジャコもゼニスで垂直統合を進めていた。両者の選択は競合というより並走であり、分業から工場生産へという同じ方向を、別の谷で示したものといえる。工場に生産を集約し、部品の互換性を追い、ブランド名で品質を保証する——20世紀のスイス時計産業が前提とした枠組みは、この世代が用意した。ASUAG、そしてスウォッチ グループへ至る産業構造も、その延長線上にある。