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PERSON · 1809–1877

オーギュスト・アガシ

Auguste Agassiz
創業者 時計職人

1832年にサンティミエへ移り、ロンジンの母体となる時計商会を築いたスイスの企業家(1809-1877)

01 — 概要 / OVERVIEW

オーギュスト・アガシ(Auguste Agassiz、1809-1877)は、スイス・ジュラ地方のサンティミエで時計の製造販売を営んだ企業家である。牧師の家に生まれ、ヌーシャテルの銀行で徒弟を務めたのち、1832年に23歳でサンティミエへ移った。翌1833年、家内工房への分業(エタブリサージュ)を基盤とする商会の共同経営に加わる。これが後のロンジンの母体となった。アガシは職人ではなく、資本と販路を担う側から事業を組み立てた人物である。ニューヨークの従兄弟を代理人とした対米輸出は、スイス時計の海外市場開拓の早い例に数えられる。1850年に健康を損ねて退き、甥エルネスト・フランシヨンへ事業を託した。

02 — Life

生涯

A life in time

1. 牧師の家から銀行へ

オーギュスト・アガシは1809年4月15日、フリブール州のモティエ(現モン・ヴュリ)に生まれた。父ルイ・ロドルフ・アガシはプロテスタントの牧師で、一家はヴォー州オルブの出である。母はローズ・マイヨール。兄は氷河期の研究で名を残す博物学者ルイ・アガシであり、家庭は学問と信仰を重んじる環境だった。

オーギュストが選んだのは学問ではなく商業である。母方の一族が営むヌーシャテルの銀行マイヨール=フォルナションで徒弟を務め、金融の実務を身につけた。当人は銀行家として身を立てるつもりでいたと伝わる。時計との接点は、この銀行の投資先から生まれた。ジュラ山中のサンティミエで時計の組立商(エタブリスール)を営むアンリ・レゲルの事業に、銀行が資金を入れる話が持ち上がったのである。

2. サンティミエでの二十年

1832年、23歳のアガシはサンティミエに移り住んだ。翌1833年、レゲルとフロリアン・モレルを共同経営者として商会「レゲル・ジュヌ商会」が発足し、アガシはその一角を占める。ロンジンが創業年に1832年を掲げるのは、このアガシの移住を起点として数えるためである。

経営陣の顔ぶれは十数年のあいだに入れ替わった。1838年にレゲルが退くと商号は「アガシ商会」へ改まり、1847年にはアガシが単独の所有者となる。1846年から翌年にかけては、村の首長(président)も務めた。事業家であると同時に、地域の名士として遇される立場になっていた。

1840年代末の政治的混乱と不況は、輸出に依存していた商会を直撃する。アガシ自身も出張先で体調を崩した。1850年、アガシはサンティミエを離れ、ローザンヌへ退いたと記録されている。

3. 退隠、そして継承

ローザンヌへ移った後も、アガシは商会の所有者であり続けた。現地の経営は雇われた支配人が担い、彼は資本の側から関与する形になる。この時期の判断で最も後世に効いたのが、甥の起用だった。姉オランプの子エルネスト・フランシヨンは、当初ローザンヌの家業である金物商を継ぐ道にいた。アガシはこの若者に時計の世界を勧め、1852年にサンティミエの商会で実務を積ませている。

1854年、アガシは事業の指揮をフランシヨンらへ委ねた。記録では、前年に地元の病院へ2万フランを寄付しており、その功により同年、村の市民権を贈られている。1861年、業績の悪化を前にアガシは事業の清算を考えたと伝わる。翻意させたのはフランシヨンだった。国際貿易の回復を読んだ甥は、自ら事業を引き受ける道を選ぶ。オーギュスト・アガシは1877年2月25日、ローザンヌで没した。67歳だった。

03 — Work

業績・代表作

What this person built

1. 職人ではなく、組織する側の人間

アガシは時計を自らの手で仕上げる職人ではない。彼が引き受けたのは、谷に散らばる家内工房の仕事を束ね、資金を回し、完成品を売りさばく役回りである。19世紀前半のジュラ地方で確立していたエタブリサージュは、部品を各家庭の職人が作り、商会がそれを集めて組み立て・仕上げ・検品を行う分業体制だった。設備投資を抑えられる反面、品質の均一化と資金繰りには難がある。銀行で実務を学んだ経歴は、この弱点を埋めるうえで有効に働いた。

商会の年産は一時1万8千本ほどに達したと伝わる。当初は「ルー・ド・ランコントル」と呼ばれる旧式の脱進機を用い、のちにレピーヌの原理に沿ったシリンダー脱進機へ移った。高級品ではなく、日常に耐える実用時計を数で供給する商会である。アガシの時計は耐久性の高さで評価を得て、比較的早い時期に名を知られるようになったと伝わる。

2. 対米輸出という賭け

業績として最も明確なのは、販路を大陸の外へ求めたことである。設立当初の商会は、ブザンソンやライプツィヒ、フランクフルトへ出向いて時計をまとめて売り、現金を携えて谷へ戻る商いを繰り返していた。ヨーロッパ内で完結する商圏である。

1830年代末から、商会は北米への輸出に乗り出す。ニューヨークに拠点を置いた従兄弟オーギュスト・マイヨールを代理人とし、1845年には彼を単独の販売代理人に定めた記録が残る。スイスの時計商のなかで対米輸出に踏み出したのは最も早い部類とされ、スイスの公的な歴史事典もアガシを米国輸出の先駆者として記している。アメリカは後にスイス時計産業最大の輸出先となり、同時にその生産方式を根底から揺さぶる競争相手にもなる。その市場への道筋を、山あいの一商会が早い時期に踏み固めていた。

3. 後継者を選び、託すという判断

アガシ自身は工場を建てていない。機械を据えた一貫生産の工場を興したのは甥のフランシヨンであり、1866年に取得したサンティミエ郊外の土地「レ・ロンジーヌ」がブランド名の由来となった。1867年には新工場で最初のムーブメントの生産が始まっている。

それでも、この転換の前提を用意したのはアガシである。エタブリサージュの商会を二十年近く存続させ、輸出の販路と取引先の信用を残したうえで、工場化の意志を持つ人物へ渡した。1883年に「エルネスト・フランシヨン商会」が合資会社として登記された際、アガシの相続人が10万フランの有限責任社員として名を連ねた記録も残る。創業者の一族は、経営の表に立たぬまま資本の側から工場を支え続けた。

04 — Legacy

評価・後世への影響

What remains

名を継いだ二つの会社

アガシの死の前年にあたる1876年、息子ジョルジュ・アガシがサンティミエで独立し、「アガシ・フィス」を名乗って時計製造を始めた。1880年に登録されたその商標は魚の意匠と AGASSIZ の文字を組み合わせたもので、スイスの商標番号22という若い番号を得たと伝わる。ジョルジュは1895年に事業を支配人オーギュスト・サンドスへ譲り、会社は1909年にアガシ・ウォッチと名を改めた。その後ウィットナウアーへ統合され、アガシの商標は最終的にロンジンの手へ渡ったとされる。父が始めた事業と息子が起こした事業は、一世紀を経て同じ系譜に戻ったことになる。

サンティミエに残されたもの

アガシが束ねた分業の商会は、彼の死の前後に工場へ姿を変えた。1876年にはロンジンの技師ジャック・ダヴィッドがフィラデルフィア万博へ派遣され、その報告書はスイス時計産業の機械化を促した文書として知られている。1880年に社名が、1889年には翼のある砂時計の意匠が商標登録され、谷の一商会は国際的に守られるブランドになった。

ブレゲパテック フィリップと違い、アガシの名はブランドに残らなかった。存命中も、兄ルイ・アガシの学者としての名声の陰に置かれている。それでもロンジンは創業年に1832年を掲げ、アガシとフランシヨンをともに創業者として扱う。本社が今も同じ町にあり、1992年には社屋にミュージアムが設けられた。分業の谷に銀行の作法を持ち込み、販路を大西洋の向こうへ延ばした商人がいた。スイス時計産業がのちに得る国際市場は、その積み重ねの上にある。

05 — Works

この人物が関わったモデル