本文へ
PERSON · 1693–現在

ジェアン=ジャック・ブランパン

Jehan-Jacques Blancpain
創業者 時計職人

1735年、ヴィルレ村の記録に時計師と記されたと伝わる、ブランパン創業者とされる人物

01 — 概要 / OVERVIEW

ジェアン=ジャック・ブランパン(Jehan-Jacques Blancpain、1693年頃-1770年頃)は、スイス・ベルン州ジュラ地方の村ヴィルレに生きた人物である。現行のブランパンは、1735年の村の登記に彼が horloger(時計師)と記されたことを創業の根拠とし、世界最古の時計ブランドを称している。ただし記録の原本は公開されておらず、19世紀以来の地方史研究にも彼を時計師とする記述は見当たらない。1950年代以前の同社の広告は、創業を1815年、創業者を曾孫フレデリック=ルイとしていた。家畜の飼育と学校教師を兼ね、後年は村長を務めたと伝わるが、実像を語る一次資料は乏しい。

02 — Life

生涯

A life in time

ヴィルレという村と一族

18世紀初頭のヴィルレは、バーゼル司教領エルゲルに属するジュラの小村だった。数百人が農牧と手工業で生計を立てる集落である。この谷に時計製造が入ったのは17世紀末とされる。当時のジュネーヴでは親方として働く権利が市民権保持者に限られ、そこから外れた熟練職人が周辺の山地へ流出した。ヌーシャテル山地とジュラの村々が、その受け皿になった。

ブランパン家はこの村の職人層に属していた。ジェアン=ジャックの父イザークは maître cordonnier、すなわち靴職人の親方として記録に残る。歴史家マリウス・ファレは、ブランパン姓を含む村の複数の家が靴職人や仕立職人といった衣服の手工業に携わっていたと書いている。

生年には二つの説がある。ブランパンの公式資料は洗礼を1693年3月11日とする。一方、サン=ティミエ教区の洗礼簿を直接確認した近年の調査は、1694年3月11日と読む。1年の差にすぎないが、公式史の記述が教区簿と一致しない例として指摘されている。

四つの職業

現行ブランパンの公式史は、彼を学校教師から時計師に転じた人物として描く。工房は自宅の2階に置かれ、1階では馬と牛が飼われていた。建物は1636年に郵便の中継所として建てられたもので、学校は50メートル先にあったという。家畜、時計、教育という三つの仕事が徒歩圏に収まっていたことになる。晩年には村長を務め、四つ目の職業を履歴に加えたとされる。

ただし同時代の記録は、この人物像を支えていない。1735年8月に生まれた息子イザークの洗礼記録に、父の職業は書かれていない。同じ年の同じ教区簿には、外科医、帽子職人の親方、釘職人といった肩書きが並ぶ。職業を記す慣行がなかったわけではない。1756年のイザークの婚姻記録でも、花嫁の父は大工と記される一方、ジェアン=ジャックの職業欄は空いている。

継承と没年

息子イザーク(1735年-1803年頃)は、ヴィルレの学校長として複数の教区記録に現れる。1768年以降の記録では、名の横に職業が併記されている。孫のダヴィッド=ルイ(1765年-1816年)について、ブランパンはヨーロッパの商業都市を巡って一族の時計を売り歩いたと記す。1798年にヴィルレがフランスに併合されるまで、毎年誰かが販売の旅に出たという。

ジェアン=ジャック自身は1770年頃に没したと伝わる。没年を確定させる記録は確認されていない。誕生から死までを直接語る史料が乏しいまま、彼の名だけが後世に大きな役割を負うことになった。

03 — Work

業績・代表作

What this person built

1735年という数字の出どころ

現行ブランパンが創業年として掲げる1735年は、ヴィルレ村の財産登記簿に彼が horloger と記載されたことに基づく、というのが公式の説明である。2008年の社内誌『Lettres du Brassus』第5号で、社史を書いたジェフリー・キングストンがこの根拠を明記した。同時に、その年に自ら時計師を名乗った以上、製作はそれ以前から続いていたはずだとも述べている。

ところが同じ2008年の第4号は、1735年を「バーゼル司教領文書館に残る、ブランパン姓と時計製造を結ぶ最初の文書上の言及」と説明していた。村の登記簿と司教領文書館という異なる所在が、同じ年の刊行物で示されたことになる。

原本は現在まで公開されていない。公式サイトに掲げられた古文書風の画像は、2015年の映像作品のために制作されたものである。ヴィルレ村役場は、ブランパンからの依頼で複数回探索したが該当文書は所蔵していないと回答している。2023年以降、同社は専門のアーキビストに旧バーゼル司教領文書館の調査を委託している。

ヴィルレに時計製造が根づいた時期

地方史の側から見ると、1735年のヴィルレに時計師がいたという像は収まりが悪い。エミール・ブルカン(1887年)とマリウス・ファレ(1937-38年)は、ヴィルレ最初の時計師をアダム・ブルカンとする。その生年は1735年10月20日で、工房の開設は1758年である。ジュラへの伝播はトラムラン、次いでソンヴィリエとヴィルレ、続いてクルトラリとサン=ティミエという順をたどり、地元の職人が本格的に取り込むのは18世紀半ばだった。

ファレはもう一点を強調している。ジュラの時計製造は農民が冬の夜なべに始めたものではなく、銃工、錠前工、工具職人、釘職人といった金属加工の職人が分岐して生まれた。長く語られてきた「農民時計師」の像は、後世に整えられた説明に近い。ジェアン=ジャックの父が靴職人であったことも、この系譜からは離れている。

署名を持たない時計

ヴィルレには、時計に名を刻むことを商業的で慎みに欠ける振る舞いとみなす慣習があった、とブランパンは説明する。無署名で売られたため、初期の仕事はほとんど痕跡を残さない。同社が確認できた1800年以前の唯一の手がかりは、Blancpain et fils と刻まれたルイ16世様式の内蓋だという。一族が扱った時計はヴァージ脱進機(roue de rencontre)を備えていたとされる。

現存作がないという条件は、この人物の評価を難しくしている。設計の思想も技法の水準も、彼自身の手による物から読み取ることができない。残るのは、他者が書いた記述と、その記述をめぐる検証だけである。

04 — Legacy

評価・後世への影響

What remains

1815年から1735年へ

1900年以降の E. Blancpain fils の広告は、創業を1815年としていた。1918年以降は創業者名も明記され、フレデリック=ルイ・ブランパン(1786年-1843年)と記されている。1928年に『Journal Suisse d'Horlogerie』へ載ったジュール=エミール・ブランパン(1832年-1928年)の追悼記事も、彼が働いた家を1815年に祖父フレデリック=ルイが創業したものと書いた。ジェアン=ジャックの名は現れない。

1933年、フレデリック=エミールの急逝を受けてベティ・フィヒターらが事業を引き継ぎ、社名は Rayville S.A. となる。広告の文言が動くのは1954年、甥のジャン=ジャック・フィヒター(1927年-2022年)が経営に立ってからである。1956年の広告は「1735年からヴィルレの時計師」を掲げた。ジェアン=ジャックの名が広告に登場するのは1959年で、1968年の新聞広告は1735年に彼が息子イザークと最初の時計を作ったと書いている。イザークが生まれたのは、その年の8月である。

訂正と再検証

1980年代から2000年代半ばまで公式資料に用いられた髭の男性の肖像について、ブランパンは2008年に、1世紀半後の当主フレデリック=エミール(1863年-1932年)のものだったと自ら訂正した。1990年には既知の複雑機構を集約したモデル「1735」が発表され、創業年は製品名にもなっている。

2024年、ホセ・ペレストロイカが教区簿と地方史研究をもとにした一連の再検証を公表し、議論は再燃した。ジェアン=ジャック・ブランパンを時計師とする同時代の記録は、現時点で提示されていない。

05 — Works

この人物が関わったモデル