ジョルジュ=エドゥアール・ピアジェ
1874年、19歳でジュラの山村に部品工房を開き、脱進機の仕事を家業に育てた、ピアジェ創業の時計職人
- BORN
- 1855年
- DIED
- 1931年
- BRAND
- ピアジェ — 1874年創業
- MODELS
- 5 本
概要
ジョルジュ=エドゥアール・ピアジェ(Georges-Édouard Piaget、1855-1931)は、時計職人である。ピアジェの起点となる工房を、スイスの山村に開いた人物として知られる。1874年、19歳でジュラ山脈の村ラ・コート=オー=フェの実家の農場に工房を構え、精度の高いムーブメント部品を手がけた。作ったものの多くは他社の名で売られ、自らの銘を入れた時計はわずかだったとされる。1911年に経営を息子ティモテへ渡し、1931年に没した。孫の代にPiagetの名が商標となり、彼の工房はメゾンの出発点として語られている。
生涯
01山村の農家から
ジョルジュ=エドゥアール・ピアジェは1855年、スイス西部ヌーシャテル州の村ラ・コート=オー=フェに生まれたとされる。標高1,000mを超えるジュラ山脈の高原にある村で、生家は農家だった。
ジュラの谷では、冬の農閑期に農民が時計部品を作る分業が古くから根づいていた。ピアジェ公式によれば、彼は若いころから時計づくりに強い関心を抱いていた。専門誌 WorldTempus の記事によれば、彼は隣村レ・バヤールの時計職人のもとで修業した。師は脱進機の製作と組み込みを専門とする職人だったという。1874年、19歳の彼は家族の農場の一角に自分の工房を構える。後にメゾンが創業年として掲げるのが、この年である。
02工房の成長と家族
ヌーシャテルの系譜学会が2008年にまとめた家系の記録がある。それによれば、ピアジェは1881年にエマ・ビュンツリと結婚し、多くの子に恵まれた。同じ記録では、1880年代前半に生まれた子の出生地はラ・ショー=ド=フォンやベルン州のルナンである。後に家業を継ぐティモテも、1885年にルナンで生まれた。1887年以降に生まれた子は、ラ・コート=オー=フェが出生地である。農場で始めた工房が、どの時期にどこで営まれていたかは、記録の上でまだ確かめきれていない。
やがて工房は手狭になり、より広い場所へ移った。WorldTempus はこの移転を1911年とし、増えた職人を収めるためだったと書く。1890年に村の教会の建物の一階へ移ったとする記述もあり、年は定まっていない。スイス歴史事典は、移転のころにはピアジェの名がすでに知られていたと記す。WorldTempus も、ジュネーブの有力な時計商の間で名が通っていたと書く。1910年の商業登記では、屋号「Georges Piaget」でアンクル脱進機の製造業として登録されていたとされる。
03息子たちへの継承
1911年、ピアジェは経営の中心を息子ティモテに譲った。商業登記の記録を転記した資料によれば、同年10月に合名会社「Georges Piaget et Cie」が発足している。社員は本人と、息子のエドゥアール、ジョン、ティモテ、ウィリアムの5人である。事業の目的は、脱進機とその部品の製造・販売だったという。記録の上では、創業者は経営を退いた後も社員として名を連ねている。跡を継いだティモテは親方格の時計師で、のちに株式会社となった家業の社長も務めている。
ピアジェは1931年に没した。1934年の登記では、彼の名が社員から外れ、社名は「Piaget et Co」に改められたとされる。事業の目的も、あらゆる種類の時計の製造・販売へと広がったという。系譜学会の記録は、自社銘の時計を出す構想をティモテが1929年に抱いたと記す。部品の工房から時計メーカーへの転換は、創業者の晩年から没後にかけて動き出していた。
業績・代表作
01名を出さない部品の作り手
ピアジェの仕事は、完成した時計を売ることではなかった。ピアジェ公式とスイス歴史事典は、彼が精度の高いムーブメントとその部品を手がけたと伝える。なかでも力を注いだのは、ゼンマイの力を一定の拍に刻んで送り出す脱進機、とりわけアンクル脱進機だったとされる。
この仕事は、ジュラの時計産業を形づくったエタブリサージュの分業の中に位置づけられる。専門の工房が部品を作り、仲介者が集めて組み立て、自らの名で売る仕組みである。部品の作り手の名は、時計の文字盤には出ない。系譜学会の記録も、ピアジェが自分の銘を入れた品はわずかだったと記す。主な顧客はスイスの有力な時計商で、彼の品に自社の名を入れて売ったという。
02「必要以上に良いものを」
ピアジェの名とともに伝わるのが、「常に必要以上に良いものを」という言葉である。ピアジェ公式もスイス時計協会の記事も、これを創業者の信条として紹介している。
名を出さない部品の作り手にとって、評判は納め先の評価を通じてしか広がりにくい。脱進機は時計の精度を左右する部品であり、出来の差は組み立てた時計の調子に表れる。求められる水準を少し超える品質を積み重ねることが、山村の小さな工房が仕事を得続けるための条件だったと読める。その積み重ねが、部品の作り手としての信用になっていったと考えられる。
03家族で営む工房という形
ピアジェが残したもう一つのものは、家族で営む事業の形である。息子たちは工房の中でそれぞれの持ち場を得た。系譜学会の記録では、ジョンは父の工場で業務の代理権を持つ役職に就き、ウィリアムは軸先の加工を担う時計職人として働いた。ティモテは家業の長となり、その子の世代へ事業を渡している。
会社は孫の代になっても、創業者の名を社名に残した。1944年に株式会社となった際の社名は「Ancienne Fabrique Georges Piaget et Cie」である。この名は2002年に「Piaget SA」と改められるまで使われたとされる。
04残された時計と、残さなかったもの
本人の手による時計としては、妻エマに贈った懐中時計が伝わる。ピアジェ公式は、この贈り物を創業者の時計づくりへの傾倒を象徴する話として伝えている。
一方で、後のピアジェを特徴づける極薄ムーブメントや宝飾時計は、彼の仕事ではない。公式も、極薄への傾倒は孫ヴァランタンに始まると説明している。創業者の業績は、個々の作品よりも、部品の質で信用を得る工房を築き、それを家族に引き継いだ点にある。
評価・後世への影響
ピアジェの没後、事業は息子と孫の世代で姿を変えた。1943年、孫のジェラルドとヴァランタンがPiagetを商標として登録する。2年後には、ラ・コート=オー=フェに新しいマニュファクチュールが建てられた。部品の工房は、自らの名で時計を売るメーカーへと転じた。
それでも、メゾンは創業者の村を離れなかった。ジュネーブ近郊に新たな拠点を構えた後も、ラ・コート=オー=フェには工房が残った。スイス歴史事典は、2008年の時点で同地に約120人が働き、装飾と組み立てを担っていたと記す。農場の工房から続く土地との結びつきは、現在も保たれている。
創業者の言葉も受け継がれた。ピアジェ公式は「常に必要以上に良いものを」を、今もメゾンを動かす信条として掲げる。2024年には、1874年の工房開設から数えて150周年が祝われた。
ひ孫にあたるイヴ・G・ピアジェは、2025年の取材で一族の来歴に触れている。1960年代末からの転換について、「農民時計師という境遇から抜け出すことが目標だった」と語った。ただし、それまでの仕事が劣っていたわけではないとも付け加えている。宝飾と芸術へ向かった後の世代にとっても、創業者が営んだ農民時計師の工房は、自らを語る出発点であり続けている。
この人物が関わったモデル
出典
本文の執筆にあたって参照した資料。閲覧日は内容を確認した日を示す。
- 01 公式 History - Piaget Luxury Watches and Diamond Jewelry
- 02 公式 Major Complications Watch Movements - Piaget Luxury Watches
- 03 報道 Art et horlogerie : l’indicible lien entretenu par la maison Piaget
- 04 専門メディア Piaget
- 05 専門メディア Piaget or the art of Extraleganza for 150 years
- 06 専門メディア Fondateurs Fabrique montres Piaget (Bulletin 34, avril 2008)
- 07 専門メディア Côte-aux-Fées
- 08 専門メディア The wonderful ultra-flat universe of Piaget
- 09 ブログ Piaget/Timeline
- 10 ブログ The history of Piaget: mastering the arts of watchmaking and jewellery